外からの視線 その1

29日の夜、とある小さな駅の近くの、崔真碩さんが親しくしているというお店に行った。その日はお店休みなのに、オーナーが、コーヒーだしてくれてお酒出してくれて、ソンセンニム(先生さま)のお客さんだからといって、お金はとってくれなかった。
芝居もできる店で、崔さんも芝居の関係でここを知ったというので、芝居をしている後輩の名前を言ってみたら、知っているので、なんて世界はせまくて、人生は納豆みたいなんだろうと、思った。
だいたいあの「李箱作品集成」の素晴らしい翻訳をした人が、どうして、こんなに近くにいるのか、すごく不思議だ。

河津さんが最初に朝鮮モダニズムの話をきいたのかな。詩の話からはじまった。
金素雲編訳の「朝鮮詩集」は抒情的な近代詩のようだったけれど、金時鐘の再訳で読むと、全然違う立ち上がり方をすること、東柱が、李箱の作品を好きだったこと、二人の詩人には共通する暗さがあること、李箱の作品の変容のこと。日帝時代に日本にいた詩人たちの多くが、誰も彼も、治安維持法予防拘禁とかで、不逞鮮人として謙虚されたり獄死させられたりしていること。生きて帰国した作家や詩人たちの多くが、朝鮮戦争のときに北へ行き、消息を絶っていること。
金史良の作品は、韓国でどう読まれているのでしょうと聞いたら、彼の日本語の小説が翻訳されて読まれるようになったのは、ようやくこの十年だということだった。日帝時代に、日本語で書いていた作家たちは親日文学のレッテルを貼られて、読まれなかったし研究もされなかった。
「李珍宇全書簡集」を、大学の隣の古本屋で、たまたま手にとったときのことなど、思い出した。あの本を読んだせいで、それから、たまたまその古本屋で「金史良作品集」や金鶴泳の小説を手に入れたせいで、卒論を、在日朝鮮人文学にしたのだった。
でも近代文学が専門の教官がそのときいなくて、指導教官のないまま、自分勝手に書いて卒業したのだが、もうすっかり忘れているつもりだった卒論の内容が思い出されてきて、金史良、金素雲、金石範、李恢成、金鶴泳、つかこうへい、と自分が卒論でとりあげた作家たちについて、聞いてみながら、どうやら学生の頃の私の基本的な理解は間違っていなかったようだと、ちょっと嬉しかった。それからそのあとに出てきた、李良枝、柳美里について。
崔さん、私の母校の大学の先生になって広島に来たのだけれど、私が学生のときに、崔さんが教官でいてくれたら、どんなに面白かったかしらと思った。韓国で生まれて、日本で育った韓国人。この人はすごく見晴らしのいいところにいるなあ、と思った。

在日朝鮮人在日韓国人在日コリアンか、呼称のことは、卒論のときにも悩んだんだけれど、崔さんが「在日朝鮮人」と呼ぶべきです、と言うのは深く納得がいった。
在日コリアンという言い方はすごくすわりがいい。なんにも問題がないように見える。そう見えることで、歴史も差別もいろんなことを見えなくしてしまう。透明にしてしまう。東京という土地もそんなふうに透明化してしまうところがあるけれど。統一朝鮮ということも考えて「在日朝鮮人」と呼ぶべきです。

崔さんは「ぼくは文学の力を信じています」と言うのでしたが、このとっても若いソンセンニムが、とってもさわやかにそう言うのが、なんだかとっても嬉しかったのでした。

「韓国から見たら、日本は戦前も戦後も、百年変わっていない。軍事大国だし。政府も何も変わっていない。そう見えます。」と言われたのが、ああやっぱり、と思いつつも、けっこうショックだった。
だって私たちは、日本は戦争に負けて、民主主義の国になりました、と習うわけで、1945年で日本の政治はがらっと変わって、私たちは正しい良い国で生まれて育っている、と思うわけで、それを疑うということは、なかなかできない。
でも私たちが現実だと思っていることは、現実だと思わされている虚構にすぎないかもしれない。というようなことは、こんなふうに他者と出会ってゆかないとわからないことだ。

翌日お会いした、日本で生まれ育った74歳の呂サンホさんは言った。
「日本ほどひどい国はないですよ。とくに政府がひどい。侵略の反省なんか何もしていない。反省しているっていっても口先だけ。日本が世界に通用するとしたら、それは世界に通用する立派な日本人がいるからであって、日本の政府が信頼されているのでは絶対にない。」

「外からの視線」という言葉を思った。93年頃に、菱川善夫先生が書いていたエッセイのタイトルなんだけれど、歌壇に対して(つまり日本という国に対して)、外からの視線が必要だという内容だったと記憶しているけれど、そのあたりのことを、またしきりに考える。

つづきはまた。