見慣れた殺戮

21日に、「ガザ 希望のメッセージ」の朗読劇の会場にいて、すごく奇妙な気分になった。劇の背景に映し出されるガザの映像は、2008年末から2009年にかけての空爆の様子で、私はたぶん、その映像を見るのははじめてなんだが、すでに知っている、という気持ちが強くした。
つまりこういうこと。
瓦礫の山とか、血まみれで並べられた死体とか、首まで瓦礫に埋められた人間とか、そこにある破壊と死は、一回性のものに違いないのに、似たような映像を、私はもう飽きるほど繰り返し繰り返し、見ているのだ。
一回性のはずのものを繰り返し見ている。
そして、そのどの一つも、私自身の体験ではない。

9・11のニューヨークのツインタワーの崩壊は、リアルタイムでテレビで見た。顔をゆがめて逃げる人々、背後で崩れ落ちるビル、ビルから小鳥のように落ちてゆくのは人間だろう、その映像が、映画なのか本当なのか、理解するのにしばらくかかった。

雨にあたると、痛かったり痛くなかったりする。(感覚過敏があると痛いと感じられるらしい)。窓の外の雨は痛くないが、場合によっては痛いかもしれない。雨が降るみたいに、破壊と殺戮が続いている星に、生きているわけだなあ、そのことを忘れながら、生きているわけだなあと、思った。
見飽きた窓の外の雨を眺めるみたいに、凄惨な殺戮の映像を見ている私は、なんだろうか。

それからまた、思い出した。
外国人のカメラマンのサイトで、パヤタスのゴミの山の映像を見た。そのなかに、小さな一枚の写真、生まれてすぐに死んだ乳児の顔があり、それを見たとき、私はめちゃくちゃ動揺した。ちょうど子どもが生まれた頃で、写真の子が、自分の赤ちゃんと、あんまりよく似ていたのだ。その写真を見ると、自分の赤ちゃんがまだ生きているのか不安になって確かめにいき、確かめたからといって安心できず、一日に何度も、死んだ子の写真と、自分の赤ちゃんとを、本当に何度も見比べて、数日して、もしかして、ちょっと私、変かも、と思った。

朗読──。声、一回性の声、は、見慣れた、雨のような殺戮のなかから、一回性の生をつかみ出す、とりもどすために有効だろうか。
たぶん、そのための、声。

というようなことを、考えていた。朗読劇の最後に、爆撃で片足を失った女の子が出てきたんだけれど、一週間後の28日には、原爆で左足を失った沼田先生の被爆体験を聞いていた。

被爆後、片足をなくして家にいて、絶望もしていた彼女に、何をしたいかとお母さんが聞いたこと、編み物をしたい、と言ったら、どこからか、毛糸と編み棒を手に入れてきてくれたこと。あたりが汚れているのに気づいて、掃除をしたくなり、雑巾をもたせてもらったら、体を動かして、掃除ができたこと。片足がなくても、動けると気づいたこと。その瞬間の心の動きのようなものが、生々しかった。
「手が残ってる。あなたはこの二本の手でなんでもできる」とお母さんがはげましたこと。
それから彼女は、家庭科の先生になり、被爆語り部になり、消えた足で世界中とびまわった。

沼田先生の被爆体験は、本にもなっているし、何度か直接に聞いたけれど、聞く度に新鮮だ。被爆体験は、あるいはそのほかのどんな体験でも、機会あれば、何度でも聞くべきだ、と思う。

見慣れたつもりの殺戮を、だからといって、知っている気になったり、わかった気になったらもったいない。そこに隠されている、死んだ人たち生きのびた人たちの、つねに新しく、決してありふれない善の輝きについては、あまりにも知っていないのだから。