琉球新報 7月14日

 12日に死亡した広島の被爆語り部沼田鈴子さん=享年87=は南風原町の小学生や名護市の国立ハンセン病療養所沖縄愛楽園の入所者との交流もあり、元気なころは毎年沖縄を訪れていた。生前、親交のあった人たちは沼田さんの死を悼み、思いを継いでいく決意を新たにした。
 沼田さんは1994年から南風原町子ども平和学習交流で広島市を訪れる小学生を受け入れ、被爆体験を語ってきた。南風原町との出会いは、友人で沖縄戦中に沖縄陸軍病院の看護婦長をしていた故・具志八重さんに南風原文化センターを案内されたことがきっかけだ。庶民的で包容力のある温かい人柄が子どもたちから慕われ、同事業の卒業生らで構成する「はえばるユース」のメンバーは、沼田さんの被爆体験や人生を描いた紙芝居を作成した。今年6月、広島市を訪れ沼田さんに届けたユースの関連団体「アオギリ.com」の熊野ひとみさん(28)は「沼田さんから平和の種を受け取った。その想いを伝えていきたい」と語った。
 南風原文化センターの平良次子学芸員は「アジアへの加害の視点も持っていた。被爆者を超えて、アジアを見なさいという言葉を子どもたちは重く受け止めたと思う」と振り返る。
 沖縄愛楽園との交流も南風原町と同じころに始まった。沼田さんは、入所者の沖縄戦体験やその後も続く差別の問題に関心を寄せていたという。金城雅春自治会長は「戦争もハンセン病患者の隔離も国策でなされた。被爆者への偏見や差別の問題は私たちハンセン病患者とも重なる。二度と同じことがあってはならないという思いをみんなで引き継いでいきたい」と話し冥福を祈った。
(高江洲洋子、玉城江梨子)



 昨日、告別式だったのだと思う。よりによって昨日は小学校の学年行事。お別れにゆかれず。でもそれでいいかなあ。死ぬという気はしないのって、言われたし。

 国の言うことを素直に信じた軍国主義少女でしたよ、と必ずそのことを先生は語った。お国のために戦ってくださいって、婚約者を死地に送りだした。私は鬼だった。人間じゃなかったんです。
 ずっとのちになって被爆体験を語るようになってから、アジアの戦争被害者のことを知り、被害者と思っていた自分が加害者でもあったことを知った。日本がフィリピンで何をしたか、中国で何をしたか。
 先生はそれをただの知識として知っていったのではない、具体的な出会いを通して知っていった、それが先生の魂の深さだったと思う。

 「私には愚痴はありませんよ」っておっしゃった、そんな声も耳にもどってくる。
 先生は、被爆の後遺症を抱えながらも、自分を、かわいそうな被爆者、であることから解放したのだ、私にはそれは奇跡に見える。

 ああ、さびしいなあ。



 セシウム牛、っていう言葉を見かけた。新たにまた42頭流通していたって。
 きっと信じたんだ。少しぐらいの線量はたいしたことないって専門家が言ったのを。あるいは避難区域の外だし、大丈夫だろうって思ったんだ。心配さえしなかったかもしれない。原発のせいでひどい目にあった被害者だとしか思っていなかったのが、気づくと、汚染牛の出荷流通に加担した加害者になっている。ほんとうに気の毒に。

 他人ごとではないのだ。思うに、権威に道をゆずってはいけない。
 権威がどう言おうと、倫理であるとか、誠実さであるとか、自分がどう生きるかの選択のところは、自分で考えて、自分で決定してゆかないと、知らないうちにとんでもない悪行に加担させられる。
 それでいま、この国こんなふうなのかもしれないが、こんな何もかも信じられなくなって、何が正しいかわからなくなって、でもだからこそ、自発性でなければ正しくない。自分の行為である以上、責任は自分にあるという覚悟のない行為は、こわい。



 自分の心はどこにあるか。こわいものはこわい、不安なものは不安、いやなものはいや、と言えなければ、幸福にはなれないと思う。
 「正しく恐れる」「風評被害」という言葉が不気味なのは、そのもともとの気持ちを間違ったもののように思わせ、沈黙させてしまうからだ。
 戦争はこわい、と言えなかったのも、こんなふうなことだったろうか。

 映画の一場面だけ見たのかな、「原爆だけは、いや」、被爆後、北朝鮮に帰国したピョンヤンのお婆さんが、身をふるわせて言った、あの率直な響きを、ふいに聞きたい。