沼田鈴子先生逝去

12日、被爆語り部沼田鈴子先生逝去。87歳。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0712/OSK201107120131.html

書こうとすると涙が出てくる。
悲しくてならない。
最後にホームをたずねたとき、そう去年の春、京都から河津さんが来たときだ、寝たきりながら、お元気そうだったけれど、スタッフさんには、体調がよくないから早めに切り上げてくださいと釘をさされていた。
「鬼じゃった私が、よい人との出会いによって人間にさせてもらった。私は死ぬという気はしないの。とにかく心は前向きだから。また来てください。私はいつでも元気ですよ。」
っておっしゃった。それが最後に聞いた声。

最初にお会いしたのは、世界子ども通信「プラッサ」が、平和公園で修学旅行生への語り部の取材をするのに、同行したとき。
沼田先生、入退院を繰り返していて、そのときは、子どもたちに語るために、背中にギプスを入れたままの姿で退院してきた、ということだった。
「私は、いじわるな子どもじゃったんです」
と先生は子どもたちに語りはじめた、その語りに仰天した。
原爆でどんなひどい目にあったか、という話程度のことではなかったのだ。
語り部をはじめたとき、子どもたちに、「かわいそう」と言われた。それでは困る。伝えたいのは「かわいそう」ではない。そう思って、どうすればいいかしらと考えたんです。
過去の悲劇ではなく、それを通して、未来を生きる哲学を、彼女は語っていた。
お話するなかで、この人は、体験を哲学に深めたのだ、と気づいたとき、心臓がどくどく波打った。本当にそういう生き方をする人がいるのだ。
私の大学時代の恩師の小林先生の友人であったり、私の学生時代からのアルバイト先の店のママが、教え子であったり、ということを知ると、私はこの人を以前から知っていた。
学生の頃、バイト先の店にときどき、若い人たちと連れ立ってやってくる杖をついた女性がいた。先生、とママが呼んでいた。休日の午後、ビールを運びました。あのころはまだ車いすでなく、義足と杖だった。

沼田先生に会ったことを理由に、小林先生にお手紙書いた。そのころもう、闘病中だったろうか。いただいたご本のなかにも、沼田先生の姿は鮮明だった。被爆アオギリのこと、原爆で傷ついた人が、出会いを通して、他者を励ます人へと変わっていったこと。
その小林先生も亡くなってしまわれたんだけれど。

詩人の河津さんと、詩と短歌のコラボをしているとき、沼田先生の姿を思い出して、作品のなかに登場してもらった。それでご本をお送りしたら、たちまち電話がかかってきて、喜んでもらったのが、昨日のことのよう。09年の年末、7年ぶりにお会いしたときには、一緒に暮らしていた妹さんも亡くなって、ホームに入っていらした。
思いがけずいろんな話を聞かせていただいた。アジアの戦争被害者を訪ねたときのこと、韓国の被爆者の人たちを、また元気になったら訪ねていきたいこと、あれこれの活動のこと、身近な人たちのこと。遠い思い出。
先生はいつも笑顔だったけれど、それ以上に、この人は、魂がいつも喜びを響かせているのだと思った。それで私のほうも、うれしくてたまらなくなる。

ああ、もうあの部屋に、先生いらっしゃらないんだなあ。

沼田先生の人生を思うと、
「一人の人間が生きた「物語」は、かつて書かれたどんな物語よりも、比較にならないほど偉大で創造的な業績なのである。」
というフランクルの言葉は本当だと実感する。
そのような人に出会えたことを、幸せに思います。そのような人がいてくれるというだけで、この世は生きてみる価値があると思える。
小林先生や沼田先生のような精神があるから、私は広島に来れてよかったと思えた。
感謝も言えなかった。いつも間にあわないんだ。

ご冥福をお祈りします。でも先生はきっともう生きても死んでも楽しいような気がする。のこされた私たちが、かわいそう。こんなにひどい世界で、こんなにたよりなくて。

「死ぬという気はしないの」っておっしゃった。本当にそうなんだと思います。

いま日本がこんなになって、被災して被ばくして、きっとこれからずっと健康不安とたたかいながら生きなければいけない人もたくさん出てくる、その人たちに、どうやって、恨みのなかから自分を救い出すのか、苦悩を価値へひらいていくのか、死んでも、先生は語りつづけるような気がする。

  重力即恩寵 あなたの消えた足は戦場の看護師みたいに忙しい
               「もうひとりのわたしが(以下略)」