アイヌ・ネノ・アン・アイヌ

チカップ美恵子さんの『カムイの言霊』を読んでいた。
チカップ(鳥)の名には語り部という意味が込められているという。伯父や母から受け継いできたというアイヌ民族のカムイ(神)たちの物語の数々は、生命のめぐりの輪のなかで、アイヌ・ネノ・アン・アイヌ(人間らしい人間)として生きるとはどういうことかを、ゆたかに語っている。
アイヌ民族は森羅万象にカムイが宿ると信じ、感謝の祈りを捧げて自然界と一体になる生活をしてきた」

被爆語り部の沼田先生は、先日の講演で、話をこう切り出した。
「私は人間じゃなかったんです。鬼じゃった。人間のかたちをしておっても、人の心をもっていない鬼じゃったんです。その私が、人との出会いによって、人間にさせてもらった、そのお話をしたい。」
妹にいじわるで、まわりの友だちにいじわるで、人の気持ちもわからずに、わがまま放題であったという子ども時代、少女時代。そして軍国主義少女として、日本がアジアでどんなひどいことをしているかも知らず、お国のために闘ってください、と婚約者を死地へ送り出したこと。

(昔、晩年の母が、といっても死んだのは52歳なのだが、7歳のころの自分の写真を見て、しきりに嘆いていたことを思い出した。なんてきつい顔をしているんだろう。鬼の子のようだ。なんてひどい子どもだったろう。
それはふつうに、子どもらしい子どもの写真であったんだけれど、母が見つめていたのは、魂の顔だったんだろう。その母には、娘のなかの鬼も見えるらしくて、弟にかみついたり引っ掻いたり、父を相手に窓ガラスが割れるような喧嘩をしたりしていれば、そりゃまあ、どれほど嘆かせたことか。)

原爆で左足を失うまでの、子ども時代の話がえんえんとつづく。やさしかった幼友達と、その子につれなくした被爆の朝の光景。

出会いのおかげで、と言う。それは、8年前にはじめてお会いしたときにも言ったのだ。沼田先生が語りつづけるのは、他者との出会いによって、自分の絶望や悲哀を乗り越えてこられた、ということ。鬼だった自分が、人間にさせてもらった、人の痛みがわかる人間になれた、そのことへの尽きせぬ感謝。

教師をしていたときに、よそよそしい生徒がいて、その生徒が何日か休んだときに、家を訊ねていったら、なかなか見つからない。誰にも家を教えていなかったのだが、家は部落のなかにあって、お母さんが、お茶うけにキムチを出してくれた。それを、おいしいと食べていると、いつのまにか、子どもが傍らに嬉しそうに座っていた。日本名なので、訊ねていくまで朝鮮の子とはわからなかった。
その話を、講演会のときにも老人ホームに訊ねたときにも聞いた。しきりに思い出されたのだろう。あるいは、障害児を抱えた教え子と出会って「宝の子ども」だと励ましたこと。それから障害者の人たちに料理や生け花を教えたり、活動をともにしてきたこと。

重力が恩寵になる。傷ついた人が励ます人になる。そのような生き方が本当にできるのだということを、信じさせてくれる人が目の前に現実にいるということ。

「日本人が犯した罪を、みずからの罪として自覚しながら、しかしそれが、たんに個人的懺悔や民族的贖罪といった方向にだけ向かうのではなく、痛みの克服が、同時に新たな全体性の回復という喜びに向かうような、生産的な視点を模索することが、これからの日本文学の課題として要求されてこなければならないだろう。」
(「外からの視線」菱川善夫)
「純粋な同苦・共苦によって、いよいよ純粋な喜びを享受できる」
(S・ヴェイユ

原爆被害者、という戦争の最大の被害者である人が、現実にそのような生を生きているということに思い至ると、あがない、という言葉がいきなり生々しくなった。
あがない、は犠牲ではない、それは人間が人間らしく生きる喜び、生の歓喜につながっている。人間になれてうれしい。沼田先生にお会いすると、魂そのものがそんなふうにうたっているみたいで、こちらもどきどきうれしくなる。

と、アイヌ・ネノ・アン・アイヌ(人間らしい人間)から見れば、しっかりと鬼の部類の私は、せめて記録し、記憶しておかなければ。

人間は人間になる、ということができるのだ。

 原爆が落とされているにくたいに顔があるあなたのよく笑う顔
 窓を這うヤモリに名前をつけてやるはやく人間になりたいベム、ベラ (野樹かずみ)