続・正しく恐がる

トリイ・ヘンデンの『タイガーと呼ばれた子』の一節を見かけた。

<「人間にはああいうことが起こるってことをきいて、それがあまりに不公平だから、何かしなきゃって気持ちになるんでしょ。…まあ、それがひとつの反応だね」「もうひとつの反応は?」とわたしはきいた。「両手を目に当てて、指を耳につっこんで、そういう情報が入ってこないようにしたくなる。つまり、この世の中がひどいところだってことはもうじゅうぶん知ってるわけだから。それがほんとうはもっと悪いところだって知ることに自分が耐えられるかどうか自信ないよ」>



正しく恐がる、風評被害、という言葉は、今年の流行語大賞ぐらいになりそうだけど、そんなことを話題にすること自体が、不謹慎とそしられそうだけど、この言葉の使われかたが、私はとても気持ちが悪い。何かもともとの感覚を攪乱させてゆくようなへんなものがある。使う人間の意図するところが何なのかわからないが、使ってはいけない使い方がされているような気がする。


可及的すみやかに、恐がる必要のないほど遠くへ逃げるのが、いちばん正しい恐がり方だと、私は思う。それをしないで残るなら、リスクを負う覚悟が問われるはずで、リスクをどう減らすかという具体的な細やかな工夫と切り離せないと思うけれど、そのあたりの文脈を無視して使われる「正しく恐がる」が、私はどうしてもわからない。だいたい放射線のリスクへの評価が定まっていないところで、正しく恐がるって、何か。
放射能についてなんにも知らない人々は、専門家の言うことを信じるしかない。そこで、「正しく恐がる」素朴な頭には「安心して大丈夫」と聞こえる、そういう言葉を無防備に信じさせて平気か? という懐疑。告訴されるのは当然だろう。
茶番になればいいんだがな。もしも勝ったら(病気や死亡と被ばくの因果を認めざるを得ないほど、たくさん出現するということだから)死ぬほど悲しいだろう、告訴した側も。
風評被害、という言葉も実に安易に都合のいいように使われて、いろいろと言い訳に使えるし、都合のいい言葉だから、大事に温存されて、とてもなくなるとは思えない。でも本当は風評被害という言葉を使わせない、という決意と、そのための工夫こそが、必要なのではないかしら。

未来の福島子ども基金をつくりましたというブログ。チェルノブィリの子どもたちについてもいろいろと。
http://kurobe-shin.no-blog.jp/bk/
『人間と環境への低レベル放射能の脅威-福島原発放射能汚染を考えるために』(著者ラルフ・グロイブ)という本の紹介。
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/c3922cde1f4c3ffcd8ff1b0a7b1bed8d

震災から4か月過ぎて、牛は、私の故郷の愛媛にまで届いて、また一段と新たな出来事のようだけれど、東日本の人たちにとって、すでに災害は災害でなく、事故は事故でなく、それぞれの運命にほかならなくなっているのだと思うけれど、生きている人はどうか、賢明に勇敢に生きぬいてゆかれますように。