めちゃくちゃ通りの歩き方

お風呂で子どもと言葉あそびする。
「う」は「宇宙船」とでてくると、レイ・ブラッドベリがなつかしい。
「ほ」は「放射能」。いたしかたないか。「り」は「輪郭」と出てくるあたりが不思議。「ん」もある。「ンゴロンゴロ自然保護区」

3月の原発事故以降、世界が二重の風景になっている夢をよく見た。たとえば、ビデオをとっていて、ビデオのこちらでは何もないが、ビデオのなかは放射能汚染されている、というふうな。

きっといまも、放射能を気にする人と気にしない人とは、別の世界を見ている。健康被害は起こらない、大丈夫という言葉を信じる人と、危険だから逃げた方がいい、という言葉を信じる人とは、同じ国、同じ土地に住みながら、別の明日を見ている。

子どもが公園の落ち葉で遊ぶのを、ほほえましく見る人の傍らで、信じられない危険なことをさせていると涙ぐむ思いの人もいるだろう。

暑いから教室の窓をあけようとする子どもたちと、放射能がこわいから窓を閉めようとする子どもたちの争い。

ひとりだけ給食を拒否する子どもと、その子どもをいじめたくなる子ども。

マスコミや専門家が内部被曝などといって不安を煽る、と一方が言い、マスコミも専門家も安全デマを流している、ともう一方が言う。

病気も死も特別なことは起こらない、いままでと同じだ、と右の耳で聞いたその日に、チェルノブィリよりひどくなるぞ、と左の耳で聞く。どちらがほんとうか私は判断出来ない。

私はいまのところ、だいたい0.10~0.20μシーベルトの範囲内で、暮らしていて、何も心配していない。

でも、それが0.3μや0.5μ、さらに1μや5μやそれ以上になったら、どう思うのだろう。

奇妙な世界に生きている。
SFのなかみたいだ。ホは放射能のホ。

「霧のむこうの町のお話は、一歩踏み出せばめちゃくちゃ通りなんだけど、ぼくは頭のなかが、めちゃくちゃ通りなんだよ」って子どもが言うので笑う。よくわかってるじゃないか。

そのめちゃくちゃ通りを、めちゃくちゃの頭を体にのせて、どうやって歩いていけばいいだろうな。めちゃくちゃ通りの歩き方。

〈ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星とわが内なる道徳律〉

ふと思い出す、カントの言葉。中学生の頃、何かで読んだのだ。何年か前に柳宗悦の評伝で、また見つけた。

きっと、お話のなかのめちゃくちゃ通りが、どんなにめちゃくちゃでも、慕わしく思えるのは、そこに道徳律があるからだが、現実のめちゃくちゃ通りは、道徳律の不在ばかりが目について、そのぶんだけ、絶望をふかくさせる。

カント先生が、毎日きまった時間にきまった通りを散歩するので、町の人々は、カント先生の姿を見て、時計の時間をあわせました、というお話が、私が小学校のとき、道徳の教科書にありましたが、カント先生は、内なる道徳律とともに、歩いていらっしゃったのだろうと、思い浮かべる。

〈ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星とわが内なる道徳律〉