価値観としての国家の選択 「菱川善夫著作集8 未来への投弾」から

数日前、菱川善夫著作集8「未来への投弾 時評と文明論」を読んでいて、息がとまるほど驚いた。そのことを、どう書けばいいかしらと思ったけど、個人的にはとてもタイムリーなテーマでもあるので、書き写します。

「国家の選択という主題──青年の意識と現代短歌への視点」

(国家とどう関わるのか、〈価値観〉としての国家の選択という文学的主題は、現代短歌の世界に現れてきているか?)という文脈のあとに、

☆☆

「(略)
 一九九一年、尾崎まゆみとともに、短歌研究新人賞を受賞した野樹かずみ「路程記」のなかに、私はその萌芽を読み取る。

 どんな深い海峡があっていまわれに隔てられている名もなき故国
 わが国と呼ぶ国もたずかりそめの胸の大地はいま砂嵐
 
 ここにあるのは、特定の国家との関わりではない。野樹かずみを動かしているのは、「名もなき故国」、つまり無名の国家の上にアイデンティティを求めようとする衝動である。それは、宿命としてある故国の、その宿命を受け入れる方向とは異質のものだ。無名の故国は、まず身体的に隔てられることによって、かえって鮮明な息を吹き返している。作者はけっして故国の側から隔てられているのではない。故国のほうが、「われ」によって隔てられているのだ。隔てるのは、あくまでも「われ」である。
 「わが国と呼ぶ国もたず」も同じことで、ここに祖国喪失者の嘆きを見るのは見当違いというものだ。「わが国」にのみこだわる方向に、現実の民族主義ナショナリズムは動いている。「わが国と呼ぶ国」を持とうとし、あるいは「わが国」の国家意志の担い手として銃を取る、という方向に現実の国家は動いているが、野樹かずみのこの歌は、それとはまったく逆方向を指している。民族の独自性や固有性を主張しようとする方向ではない。その独自性や固有性を消し去って、誰のものでもない国家(それゆえに誰のものでもある国家)という普遍的な国家への夢が、野樹かずみの根底にある思想だ。だから「かりそめの胸の大地」を、仮の国家として選び取り、そこに自己の同一性を帰着させようと試みる。その「胸の大地」が豊穣な原野ではなく、「砂嵐」の吹きすさぶ砂漠であるところに、一九九○年代という時代が影を落としているだろう。湾岸戦争の砂嵐、中東の砂嵐が、「かりそめの胸の大地」の「砂嵐」には重なっている。
 こういう野樹かずみの特色は、岡井隆の「ナショナリストの生誕」(「短歌」一九五八年一月号)と比較したとき鮮明になる。

 その前夜アジアは霏々と緋の雪積むユーラシア以後かつてなき迄 (その前夜)
 アルバアイニハコノチチニサエソムクボコクコユウ(母国固有)ノホネグミヲコソ   (祝電抄)

 「ナショナリストの生誕」にある根本の思想は、民族の運命は、民族自身の手で決定するという民族主義の論理である。しかもそれが、自由な個人の生誕とダイナミックに貫流していることで、アジア的民族主義の論理は、近代ヒューマニズムと同型のナショナリズムに押し上げられ、それがこの作品の思想的骨格を形成しているところに、一九五○年代の傑作「ナショナリストの生誕」の輝ける特質があった。
 だが、野樹かずみの歌が指し示しているのは、そのような方向性ではない。

 列島のすべての井戸は凍らんとして歌いおりふかき地下から  岡井隆
 水底に沈みし大樹いまもなお歌わぬ千の鳥を翔たしむ   野樹かずみ

 岡井隆の井戸は歌っているが、野樹かずみでは、「歌わぬ」鳥が飛び立っている。岡井隆では、歌うことで民族の普遍性につながっていたが、野樹かずみでは、歌わぬことが普遍性につながる道となっている。野樹かずみの「歌わぬ千の鳥」は、何一つ、民族的優位性と関わることがない。言葉が、歌が、中央集権的な権力を作り、証明不能の民族的価値体系を作る地点とは違う地点、「歌わぬ」地点に、国家と民族のアイデンティティを求めようとしているのだろう。制度としての国家を崩し、価値観としての国家を復権していくための、これは大切な試行だと私には見える。
 (以下略)」 

初出、ながらみ書房「短歌往来」一九九二年六月号。

☆☆

こんなふうに書いてもらっていることを、私は20年間知りませんでした。しばらく前から、著作集をぼつぼつ読んできて、石川啄木論あたりがすごく面白くて、菱川先生が亡くなったことは、ものすごくさびしいと、思ったりしていたのでしたが、これを書いてもらった以上は、野樹はもうさびしくないなと、思いました。

いや、さびしいんだけれども。



価値観としての国家──
シモーヌ・ヴェイユが「善」(という価値)との関わりにおいて、人間存在に関わる諸条件を検証したなかに、もちろん「国家」もあった、ことなどをふと思い出す。(「根をもつこと」)
価値観としての国家、「善」との関わりにおいての国家、必要なのは、たしかに、国家に向けての、そのようなまなざしなんだと思います。