価値観としての学校の選択

10年前の拉致事件のときに、拉致がよくないのは当然だし、それを責めるのももっともだけど、それなら同時に、日本が朝鮮半島を侵略していたときにやってきたことへの、反省が出てきて当然だと思うけれども、それがないのはへんだし、拉致被害者の一時帰国という、仮にも国家元首同士の約束であったことを日本が一方的に破るというのは、いいのだろうか、と私は思ったんだけれども、それで、口にしたりしたんだけど、それを聞いた人は、何か警戒するような顔をした。

うんと年上のおじさんだったけど、いろいろと難しいことをしっかり考えているんだね、というおためごかしなことを言ったが、ああこの人とのつきあいはこれで終わりだ、と直感した。パアラランにお金くださるスポンサーさんだったんですが、それ以来、送金はなくなり、住所もわからなくなり、やがて私は名前も忘れました。

というようなことがあったので、パアラランと関わりのあるところでは、私の個人的な考えは口にすまい、私のせいで、スポンサーさんを失うのは、ほんとに申し訳ないし、つらい、と思って、言わないように努力してるんですが、本名とペンネームと使い分けてるつもりでも、だらしないから、なかなか無理だし、ばれるときはばれるし、言いたいことは言ってしまうし、ああもういいや、ゆるしてください。

しばらく前にも、朝鮮学校のことを、「あれは北朝鮮の学校だろう」と、景色ばんで言うおじさんがいて、でも、その反感がなんにもとづいているのかといったら、マスコミが流すいいかげんな情報から受ける「印象」でしかない。
だから、朝鮮学校への取材記事載せた冊子をあげました。

「いい学校だから、もし私の子どもが、日本の学校でいじめられて、通えないというようなことになったら、朝鮮学校に入れてもらおうと思ってます」
って言ったら、ぽかんとしていた。
想像もつかないらしい。

ふつうの子どもがふつうに通ってるんですけど。私の子どもみたいな子どもが。

「違った価値をもつ人が、いかに一緒に生きるか。これは、小さな人々のなかで大事だと思います。これを調整して、うまくやっていくのが民主主義なのです」(小田実の最後の講演から)

たぶん、私たちは勘違いしているんだが、国家や政治家が民主主義をやってくれるわけではない。国家や政治家が、独善的、独裁的になるときにも、それにひきずられずに、民主主義をやっていかなければならないのは、私たちひとりひとりで、それができなければ、民主主義なんて滅ぶのだ。



価値観としての学校の選択を考えるとき、まず重要な価値は、いじめがない、ということだ、と思う。

それであいにく、私の子どもはそんないい学校に通えていない。

月曜日、懇談会に行ったら、9月から担任になった先生が、「9月ごろはおかしかったですよ」って言う。朝、バス通学の子どもたちは早く着く。私の子どもが席について、ノートをひらくと、みんながそれを取り囲むけれど、その様子がふつうじゃなかった。それから、通学班や隣の席の女の子たちにいじめられるということになったわけだ。
「でも、いまは落ち着いていますよ。」と先生。

そりゃあもう、子どもは子どもなりに、連絡帳に書いたり、本人と親に、直接抗議したり、闘いましたから。いじめるほうが絶対に悪いんだからおまえはひるむな、と私は言った。

「あとは、字をきれいに書きましょう」
ということで、懇談は終わり。



それから山口に帰省していた。
義父さんとパパが家のなか片付けていたら、古いオセロゲームが出てきた。それで子どもと私と遊んだ。
子ども、ぼろぼろに負ける。泣いて叫んで悔しがるのが、おもしろかったが、4回目ぐらい、あんまり泣かせてもなあと思って、手加減したら私が負けた。悔しいので、もう手加減しないことにする。

気づくと、今年もあと2日。