「原爆文学研究9」/当事者になること

『原爆文学研究9』という冊子を送っていただいた。
とても興味深く読みました。

特集 原爆表象/文学と政治的リアリズム
「誰が広島を詠みうるか?」 と題した松澤俊二さんの論は、
おおざっぱな私の理解だけれども、
まず、天皇の御製碑をとりあげ、それが、いかに「忘却」するかという論理をもつと指摘する。次に、いかに「記憶」するか、について、被爆者による合同歌集をとりあげる。
ここで印象的な問題提起がされている。合同歌集『廣島』の作品は、原爆体験者の声に「真正」性を見出し優遇する。 が、
「それは裏返せば〈遠く外から眺めて筆を走らせた作歌たち〉、つまり原爆を体験せず、それを詠うものに口を噤ませる言辞でもあった。」

「そしてさらに問題なのは、そのような「真正」性が原爆詠のただ一つの基準として今後もあり続けるならば、原爆詠というジャンルは滅びざるをえないという点である。実際の原爆体験者は日を追って少なくなっている。それを詠い継ぐためには、新しい方法論、新しい評価軸が生み出され、討議され、共有されねばならない。」

という問題提起のあと、大口玲子さんの「神のパズル」の一連(歌集『ひたかみ』所収)と野樹の短歌がとりあげられている。野樹の3首、

「かえれんよ原爆で焼かれて何もない向こうへかえってもなんにもない」
アガシ、オディカムニカ(娘さん、どこへ行くか)」迷い込んだ路地で呼び止められたハプチョンの町
「原爆は十二歳のとき。首と胸にケロイドあるでしょう今でも痛い」
       (『christmas mountain わたしたちの路地』)

について以下のように。

「野樹が、これらの歌に、自身が聞き書きに携わってきた在日韓国人原爆体験者の声の痕跡を留めようとしていることは明らかだろう。朝鮮語や日本語のしゃべり言葉を大胆に取り入れたこれらの歌では五七五七七の定型、短歌であることを示す唯一のアイデンティティでもあるが、それは失われている。けれども、もし短歌という領域において、必ずしも日本語を母語としない人々の声を拾いあげようとするならば、そのナショナルな文芸のフォームが揺らぐことは必定だろう。彼らの声がそのまま残されているとはいえないまでも、少なくとも定型の解体をものともせずその声を聞き取り、残そうとする試みに、単に素材としての彼らと向き合ったのではない、ナイーブな言葉だが、誠実さを感じる。そのとき短歌は、作者の表現の器でなくその文芸ジャンルに失われつづけた他者の声を拾い広めるための、いわば”拡声器”ともなるといえよう。意識的にせよ無意識的にせよ彼らを抜きにした原爆体験の「記憶」を綴ってきた原爆詠の、新しい可能性がここに示唆されているのではないか。」


定型がくずれているのは、むろん戦略的だったわけでないが、聞いたとおり、ではないにしても、できるだけ、私がそのように聞いたと記憶しているとおりに、私の作品としてでなく、短歌であるかないかもともかく、ただ彼らの声を声として届けたいと思った。
それを、そのように聞いてもらえてうれしい。「誠実」と言ってもらえてうれしい。(安易であるとか、いろいろ言い方はありそうなもんである)

「拡声器」というより「集声器」であると思う、という意見ももらったりしましたが、ほんとのところ、みもふたもない言い方をすれば、かつて聞いた声が、空耳になって戻ってくるのを、私は、かろうじて書きつけただけではあるのでした。

その他、画家たちの話とか、いろいろ興味深かったです。
最後に会場からの質問のようだけれど、「当事者になる」という言葉が出てくる。当事者であるか、当事者でないか、ではなく、「当事者になる」ということ。「当事者ということを考えたときに、八月六日および八月九日だけが当事者性を持っているのではない」「私たちが当事者になる」「そういう関係性として考えないと、これは本当に人ごとになってしまう」

それを受けて、深津謙一郎さんがシンポジウムのまとめのなかで、
「原爆に関する出来事に呼びかけられた(何がしかのメッセージを受け取った)気がし、自己を失うような不安感に陥ったとき、私たちはおそらく、直接体験の有無を超えて原爆の「当事者」になるのだろう」という。

「当事者になる」
ああ、それがブンガクだ。
私はものすごくすっきりした。

朝鮮人か、と言われれば私は朝鮮人ではない。被爆者かと言われれば被爆者でも二世三世でもない。だから、当事者ではないと言えば当事者ではない。当事者であるかないかは、だけれども、どうでもいいことではないかと、そんなことを言ったら世間から叱られそうなんで、言えないんだけど。
でも、ブンガクの仕事は、当事者であるかないかではなく、「当事者になる」ということだわ。散文でも詩でも短歌でも。

もしかしたら。多くの社会詠が退屈なのは、当事者になっていないからだと思うんだけれども、
だけれども、当事者になるという楽しみ(あるいは苦しみ)のほかに、ブンガクの面白さなんてあるんだろうか。書く側にとっても、読む側にとっても。

小学校3年生のときに、「本を読むと、自分がその主人公になったような気がする」という内容の詩を書いた記憶があるんだけど、たしかにそこを離れて、ブンガクはない、と思う。

「当事者になる」

言葉で言うのは、簡単ですが。