問いが降り注ぐ

高校の先生をされているのだと思う。ヤドリギさん。
修学旅行で広島に来られたのだろう、ヒロシマへの旅をテーマに、生徒さんたちと創作した共同詩を送ってくださった。

「問いが降り注ぐ、ヒロシマの声のほうへ」というタイトルがいい。

長いので、どう引用していいのかわからないのだが、心打たれた。
書かれているのは、すでに知っている被爆の景色なのだが、朝鮮人被爆者のことにまで目が届いていて、被爆後の地獄絵図のなかにもなおあった民族差別の記録も拾っているのはさすがで、それからヒバクシャと記される、いまにつづくヒバクシャについて、セミパラチンスクやイラクのできごとについても思いをはせていて、聞けるかぎりの「ヒロシマの声」をきこうとしている。
それらヒロシマやヒバクシャの物語だけでなく、それを知っていく側の心の動きのようなものもみずみずしくて、これは朗読劇になれば面白いかなあと、想像しながら、読んだのだけれど、心揺さぶられたのは、体験の継承、というのは、葛藤する勇気のことか、と思ったからでした。何よりもその葛藤する勇気に、感動させられている。

つきつめれば、言葉でしか伝えられない、言葉でしか残してゆけないことなのだけれど、そうして、読んでゆく、聞いてゆく、知ってゆく、被爆の体験を、記していく、その過程で若い人たちが体験する、それぞれの個人的な葛藤こそは、体験の継承にいのちを与えてゆくものかもしれないと、そんなことを、考えさせられました。

先月、原爆の火キャンドルナイトをした若い人たちの発言のなかの「個人的な火」という言葉がとても印象的だったのだけれど、被爆体験というものもまた、個人的な葛藤、を通してしか、継承されてゆかないことかもしれない。
もとより受け止められないほどの他者の体験を受け止めるためには、きっと、あなたの、個人的な、あなた自身の苦しみが必要なのです。だからこそ、あなたの小さな個人的な苦しみもまた、とうといのです。

そういうことなんだわ、きっと。



で、ヤドリギ金子さん、私の歌集「もうひとりの(以下略)」について、ブログに書いて下さった。

http://ameblo.jp/wife0407/entry-10761016150.html

こんなふうに対話をしてもらえるなんて、とてもうれしい。感謝です。