力の詩篇/劣化ウラン弾

 ガザ侵攻に関して、ナナさんが、ヴェイユの『イーリアス』力の詩篇、を論じてくれていた。私が最初に読んだのが、この論考だったから、原点に戻りたくなって、引っ張り出してみた。すこし引用します。


シモーヌ・ヴェイユ
イーリアス』力の詩篇 から

「『イーリアス』の真の主人公、真の主題、その中心は、力である。人間たちに使われる力、人間たちを服従させる力、それを前にすると人間たちの肉がちぢみ上がる、あの力だ。そこに現われる人間の魂の姿は、たえず力との関係において変形され、みずからは使用しているつもりの力にひきずられ、盲目にされ、自分の受ける力の束縛に屈した姿である。」

「力とは誰にまれそれに服従する者をものとする。極限まで作用する場合、力は人間を文字通りの意味でものにしてしまう。力は人間を屍にするのだから。誰かがいたのに、一瞬ののちには、誰もいないのだ。これこそ『イーリアス』が倦むことなく私たちに提示する光景である。」
(もの、に傍線)

「このように暴力はおのれの手の触れる人々をおし潰す。ついにはそれを忍ぶ者同様それを扱う者にとっても、自分の外部に現われるに至る。」  

「力を中庸に用いることだけが、この歯車装置から逃れさせてくれるかもしれないのだが、それは人力を越えた、弱さのなかにいながら変わらぬ尊厳を保つのと同じくらい稀有な、精神の力を要求するだろう。」

(シモーヌ・ヴェイユ著作集)



 力のもとで、人間はモノでしかなく、奴隷にしかなれない。力を振るわれる側だけでなく、振るう側も。この認識からはじめるべきだと思う。祖国があるかないかより、このような暴力に手を染めるか染めないかのほうが、断じて重要な問題のはずだ。そのような力にひきずられるとき、人は自らの信仰を裏切っている、と思う。
 偉大さは、そのような力を拒むこと、そのために求められるのが、信仰であり、美であり、詩であるのだと思う。「人力を越えた、弱さのなかにいながら変わらぬ尊厳を保つのと同じくらい稀有な、精神の力」。


 kayoちゃんの日記によると、ガザで劣化ウラン弾が使われたかもしれない。クラスター爆弾も使われたかもしれない。という。愕然とする。2006年に思いたって調べたとき、劣化ウラン弾は、コソボの紛争やイラク戦争その他で、すでに90万発使用されていた。これが悪夢でなくて何かしら。劣化ウラン弾放射能があるのです。被ばくする。小児ガンや白血病の多発は、これまでもすでに報告されてきたと思うけれど、いったい、どれほどのヒバクシャが、いまも、生み出されていることだろう。

中国新聞が『世界のヒバクシャ』という本を出したのは1980年代だった。チェルノブイリの事故の前で、それでも、ヒバクシャがこんなにたくさん、世界各地にいるのだと戦慄したが、あのときの戦慄さえ、牧歌的に思えてくるくらいの、その後の世界だ。



昨日、隣町の道の駅まで、そば食べにゆく。正月の雪が消えのこっていた。山里はしずか。