怪物

『アラブ、祈りとしての文学』(岡真理)
幽霊の物語の次には、怪物が出てくる。
ポストコロニアル・モンスターという章。
エジプトの作家イドリースの『黒い警官』という話について。

植民地下で、権力の手先となった警官に、反体制の活動家の青年が、拷問され、めちゃくちゃな殴打を受けた(それは背中の皮膚が残っていない、というほどのものだったらしい。そして警官は殴打することが喜悦であった)。青年は人格を崩壊させられ、卑屈ないやらしい人間になりさがってしまった。
なぜそんなふうになってしまったのか、ずっと後になって、青年の友人は、黒い警官のことを知り、その警官のもとに友人を連れていく。
そこでの光景は凄まじい。
黒い警官は、「狼のように咆哮し一個の獣と成り果てた人間の姿」をさらしているが、彼に対峙する元囚人もまた、咆哮する獣になる。暴力を行使した側も、行使された側も、互いの似姿のようになって、区別がつかない。
ついに黒い警官は、ゴヤのわが子を食らうサトゥルヌスの絵のように、自らの腕の肉を食いちぎる。
これは、植民地主義の暴力を、独立したはずの国家が受け継いでしまったということ、ポストコロニアルの世界でなお、植民地主義の怪物が息づいている現実を撃つのだが。

S・ヴェイユの「イーリアス 力の詩篇」のことをしきりに思い出した。書かれているのはまさにそのことなのだ。
怪物。ヴェイユの言葉で巨獣。

ヴェイユ生誕100年という。なにか、「ヴェイユをめぐる随想」みたいなものを読みたいなあ。どんなに彼女の思想が、この世界をあざやかに映し出してくれる鏡であるか、危機のときの一本の綱のように存在しているかを、語ってくれるようなもの。

「アボン 小さい家」の監督が、バブル時代の日本に嫌気がさし、まず出かけたのはアフリカだったという。そこで見たのは、アフリカ固有のものであるよりは、その宗主国の姿の写し絵のようだった、と語っていたのも思い出したりする。



恐ろしい話を聞いたのだ。

老人会のお爺さんが、言っていたらしいのだが、ある種の年寄りは、手がつけられなくなって、精神科医院に収容される。痴呆、などというのは、とてもかわいいもので、本当に手がつけられなくなる年寄りというのがいるらしい。それで病院に収容されるが、生きては出てこない。収容されるとまもなく死ぬ。それでお爺さん、疑っているのだ。あれは病院でひそかに始末されてるんじゃないか。
まさかそんなことはないだろうが、始末されてもしかたないというか、始末するしかない、というような人格の壊れ方をする老人たちがいるらしいのである。
ぶるぶる。

もしかして、「黒い警官」のようなことをしていたら(あるいは、されていたら)、そういう壊れ方をしても不思議ではないのかなあと、思ったりした。
暴力はふるう側もふるわれる側も「人間スクラップ」になりはてる。




ちびさん、床に、服やら、おもちゃやら、鉛筆クレパス、いろいろならべて、「アートしているの」らしい。意味不明のモンスター。それでひとりで片づけられなくて(かたづけるの、むずかしいの、と涙目なのだ)、私が片付けるんだな。