数えてゆけば

笹井宏之さんの短歌を読むと、私はなぜか宮沢賢治を思い出した。
たとえば、「わたくしといふ現象は」ではじまる「春と修羅」の序、因果交流電燈や、銀河や海胆の話など。
それからいくつもの童話たち。笠井さんの短歌の一行ずつから、一篇の童話が生まれてきそうだった。もしかしたら、賢治の童話のなかの住人のように感じていた。
そういうことも、いつか話してみたいことだった。

追悼の詩、など私は書けないので、思い出した詩を。
92年か93年頃、青森のほうの新聞の文化欄に小さく載ったとおもう。
蝦名泰洋さんは『イーハトープ喪失』というタイトルの歌集を出した歌人だけれど、(この人がいなければ私は短歌にあこがれなかった。いつどこで見失ったのだろう。)詩を書くときは、伊丹イタリアというペンネームを使った。

そういえば、私が最初に読んだ笹井さんの短歌は、「数えてゆけば会えます」という、あの美しい一連だった。



    カムパネルラ忌       伊丹イタリア


王国を見にいくと言い残して
もどらない彼のことを
パンを食べているとき忘れていた
食べるときは忘れているのだ
たえまなく浸食される時間の痛みの中で
わたしも一筋の傷口である
黒パンには塩分が含まれており
沁みる
王国はどうだったの?
と、もどって来たら訊いてみよう

  だれもいなかったよ
  王もいない
  どの部屋も空っぽ
  ただ玉座に
  四季の収穫だけが飾られていた

黒パンには
両眼から落下する石と同じ成分が含まれており
噛むと顎がふるえるのをとめられない
海の方角にあるはずの
だれもいない国を想い描いた

旅路で
もし死んでいなければ
彼は
カムパネルラと同じ年だ
いいえ
もし生まれていたらの話だ
そうしたことも
食べるときは忘れている

もう一度
始発から数えてみよう
わたしがいることと
彼がいないことの闇をつないでいる
駅の数を