根をもつこと

現代詩手帖特集版シモーヌ・ヴェイユ』に載った『根をもつこと』の解説、こちらに入れておきました。
http://kazuminogi.wordpress.com/117-2/

一部抜粋


 ヴェイユの最後の論文は一九四三年、ロンドンの亡命政府のもとで、解放後のフランスの再編成計画として書きはじめられた。
 「義務の観念は権利の観念に優先する」という印象的な言葉から書き出される『根をもつこと』は、「人間の義務の宣言に関するプレリュード」という副題をもち、第一部「魂の要求するもの」、第二部「根こぎ」、第三部「根をもつこと」の三部からなる。
 義務とは何か。まず「人間としての人間それ自体に対する義務のみが永遠である」とする。「自分に相手を救ってやる機会がある場合、その人間を飢えの苦しみに放置しないことは、人間に対する永遠の義務の一つである」。この義務は倫理的かつ宗教的である。


 「言論の自由」の項では「知性の集団的行使なるものは存在しない」と、負の側面も的確に指摘する。「思惟の表現が(略)〈われわれ〉という短い言葉に先立たれるようになるやいなや、知性は敗北する。そして知性の輝きがかげりをみせるとき、かなり短時間のあいだに善への愛も踏み迷うことになるのである」。また「真実」への要求は魂のいかなる要求にもまして神聖であるゆえに「虚言の組織化」をおこなうとき「ジャーナリズムは犯罪を構成する」。魂を善と結びつけるには、精神の教育、知性の教育が必要であり、真実を愛する習慣をもたねばならない。


 ヴェイユの「祖国に対する憐み(コンパシオン)」は、国家や国家の偉大さに向ける感情ではない、真逆に「弱さへの想い」である。ヴェイユにとって、敗戦と祖国の喪失という現実のなかで、自らの魂が「不幸の極限」の民衆とともにあることほど重要なことはなかった。「民衆のみが、おそらくは、いっさいの認識のなかでもっとも重要なものであるべき、不幸の現実に対する認識を独占しているからである」。民衆への謙虚さのないところに善はない。無限の義務とは、十字架に磔けられたキリストのもとにあるように、不幸に磔けられた民衆とともにあること。その一点においてのみ政治も宗教も別ではない。偽りの偉大さを捨て最も弱いものと同苦するとき、最も美しいものが何か、真に守るべきもの、果たすべき義務を知ることができる。正しく善を識別させるものは憐れみである。

☆☆
私のいたらない解説ではなく、ぜひ、ヴェイユの論文を読んでほしいです。