蝿。たった一匹の蝿にいらいらしたりするが、それぐらい蝿を見なくなっているということでもある。子どもの頃は、蝿をよく見た。台所には蝿取りリボンがぶらさがっていて、テーブルの上にのったりすると、蝿取りリボンが髪にくっついて、ひどい目にあった。フィリピンのゴミの山では、いいようもない、蝿の群れ。無数の蝿の飛び回るなかで、ごみの上にすわって、子どもたちは拾った果物を食べていたりした。昨日私が、すこし傷んでいるからと、捨てたようなものを。雨季、激しい雨が降ったり、カンカン照りになったりを繰り返す天気に体がとてもだるくなってくると、まわりを蝿がとびかっても気にならないどころか、自分のまぶたにとまった蝿を追い払う気にもならなくなる。まぶたに蝿をとまらせて平気でいる自分にわれながら驚いたけれど、疲れると、そうなるのだ。                                                                                                                               

 蝿。シモーヌ・ヴェイユの美しい文章を思い出す。「われわれは、光に惹きつけられて近づけずにいる壜底の蝿のようなものだ。しかしながら、一瞬たりとも、光から身をそむけるよりは、無窮の時間を通じて壜底に貼りついているほうがよい。光よ、同情してくれるか。無窮の時間の果てにガラスを破ってくれるか。たとえそうでなくてもガラスに貼りついたままでいること」 シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』