しやうがないことか

歌誌「ESそらみみ」の谷村はるかさんの、「扇風機の夜──政治的な戦闘的な竹山広」が面白かった。竹山広歌集めくったら、原爆の歌の次には、政治的な歌の多いのが目につくんだけれど、その内容を分析している。
いくつか歌をあげたあとで、
被爆体験者だから戦争関連の歌が多くなる、とは必ずしも言いきれない」むしろ「原爆のことは忘れたい、原爆の話は避けたい、話したくも聞きたくもない、という被爆者が非常に多い」(そうだろうな、と思う。被爆体験の聞き書きをしたとき、必ず言われたのが、話したくない、思い出したくないという言葉だった。何十年も語らなかったし、今も決して語らない被爆者を何人か知っている)ことを考えると「被爆者が直接に原爆や政治を歌うことは、当たり前のことではなく、むしろ歌うこと自体が相当に意識的、積極的な態度であるともいえる」つまり「政治に反応し、態度を表明し、作品に著し、さらに作品の中で行動する竹山広のありかたは」「被爆者という属性ではなく、竹山広個人に由来するものだろう」という。なるほど、と思う。
当然だけれど、被爆者、とひとくくりにしても、その苦しみも、苦しみ方も、ひとりひとりのものである。

次が。竹山広にはアメリカを歌った歌が多いと指摘しているのだが、そこであげられた歌がすごいわ。
 
 眠るべき喉けもののごとく渇くアメリカ滅べソビエト滅べ
 アメリカに一発の核を落とさんか考へ考へ燃ゆる枯菊
 戦ひし日よりも憎きアメリカと思ふくらがりを帰りきにけり
 扇風機の翼しづまりゐる深夜アメリカはわれに滅ぼされたり


被爆者の手記に、アメリカへの復讐を訴えるものはなかなかないと思う。ましてアメリカに核落とせ、とか。
そういえば、キューバチェ・ゲバラが、広島にきたとき、こんなにひどいことをされていて、なぜアメリカを憎まないのか、と不思議がったというが、本当になぜ憎まないのだろう。
手元に原爆詩集などあるが、アメリカが憎い、という詩は、わずかに、朝鮮戦争時に、アメリカのせいで祖国が戦争をしていることに対しての怒りを記した在日朝鮮人の子どもの詩があるくらい。
人間は力に対して従順になる。圧倒的な力に対しては圧倒的に従順になる。原爆とアメリカ、というふたつの力は、まったく圧倒的だったのだろう。

だからといって憎む気持ちがなかったとは思えない。むしろ体のなかは恨みや憎しみや絶望でいっぱいだったんじゃないか。そういう内面の葛藤も、被爆体験を語りにくいものにしている理由かもしれない、と私は想像する。「ノーモア」の言葉は、本心でもあり、きれいごとでもあるだろうと思うが、被爆者にとっては、復讐を思うこと、アメリカに核落とせ、あの地獄を味わってみろと思うことは、自分自身が悪魔になることだ。原爆の酷さを自ら知る被爆者にとって、そのとき自分が誰に何をもたらすどんな悪魔になるのか、想像するまでもない。もしかしたら何より自分を悪魔にしないために必要な「ノーモア」だったかもしれない。

それを「アメリカに一発の核落とさんか」と書く。アメリカという圧倒的力に対して圧倒的に従順だった日本の戦後に、アメリカ憎しといってはばからない歌人がいたのは驚きだ。

アメリカという圧倒的な力に対して圧倒的に従順な日本の戦後は、世界に対する視野を半分程度は失っているかもしれない、と思うが、それに与しない竹山広の歌は、パキスタンビンラディンや、いろんなところに通じる水路となるかもしれない。

 束ねたるいのちをビルに鋳込むまでに迷ふをゆるさざりし憎悪や
 憎まるる何もアメリカはせざりしや斯くへりくだる声ひとつあれ
 ミサイルの飛来昼夜なき戦場とアメリカをなしくるしく眠る

アメリカ憎しのこの感情は、北朝鮮にも通じるだろう。この人だったら対話が可能だったかも、と思った。解放後の南朝鮮にアメリカの傀儡政権ができて、それに反対した済州島島民が虐殺されて、祖国は分断された。アメリカのしてきたことはまったくひどいのだ。
憎しみなんてよろしくない感情だろうが、それは見つめぬかれることによって、アメリカという圧倒的な力に対して圧倒的に従順な日本の戦後が見えなくしている半分の世界を見せてくれる灯りとなりえるかもしれない。

被爆者であるという特殊性、さらに、みんなが言わないアメリカ憎しを言うという特殊性は、もしかしたら意外と普遍的な光景につながっているかもしれない。

アメリカという圧倒的な力に対して圧倒的に従順なこの国が、非従順で反抗的な国のことを、理解できないのは当然かもしれない。だからといって断絶されたままでいいということはないし、敵視が正しいとは思わない。理解への水路は、案外こんなところにあるかもしれない。

というようなことを、思った。

原爆はしょうがないことだ、と当時の防衛大臣が、しょうがない発言をしたあとに書かれた歌が、最後にひかれている。87歳のときの歌という。

 空缶の水飲み干して陶然と顔上げしひとよ しやうがないことか
 己が名を叫びつつ山に果てゆきし女子挺身隊員よ しやうがないことか
 うち伏しし家より空を蹴上げゐし二本の足よ しやうがないことか
 山みづの溜りに身を折り重ねゐし死者たちよ しやうがないことか
 一瞬にして一都市は滅びんと知りておこなひき しやうがないことか
 六十二年昔をきのふをとといの如くに泣けり しやうがないことか

この怒りには、励まされる。