「わが国」

「わが国」という言葉に衝撃を受けたのは、21歳の秋、釜山の街角だった。釜山についたその日のうちに、大学で日本語を専攻する学生たちと出会って、街を歩いていたとき。日本語で話してくれる彼らが、自分の国のことを言うとき、「わが国」と言う。
韓国語なら、ウリナラ。訳せば、わが国、で間違ってない。

「わが国」という言葉は、驚きだった。
私の国?

日本は日本である。国は国である。私は私である。だが、「私」と「国」とが結びつく、などとは夢にも思ったことがない。

彼らが、韓国を「わが国」と言うのを聞いて、私ははじめて、私自身は、日本を「わが国」と言えない、ということに気づいた。
「私」と「国」を結びつけることが、私はこわい。

「ぼくが日本語を学ぶのは日本に負けないためです。知らなければ負けます。わが国は日本に侵略された。ぼくの死んだ父は、少年時代、日本軍に強制労働させられた。なぜ侵略されたか。日本を知らなかったからです」

と言う男の学生がいて、年上だったのでオッパヤーと呼んでいた、釜山にいる間、毎晩一緒に飲んでいて、家にも泊めてもらって、彼のお母さんと一緒の布団で寝かせてもらったりしてたけど、それら、なつかしい話はとりあえずおいといて、彼らがそのように使う「わが国」。

ためらいなく彼らが言う「わが国」という言葉がまぶしかった。私は言えない「わが国」。私にはない「ウリナラ」。
いったい、国を奪われたのはどっちだったのだろう、と思えてきて、どうにも落ち着かない変な気持ちだった。
もちろんそれは、国がないのではなく、国とつながる心がないということなんだが、たぶん、侵略された側でなく、侵略した側であるというのはそういうことだし、戦争に負けるというのはそういうことなんだなと、そのときぼんやりと思った。
とにかくそれが、「わが国」という言葉との出会いだった。

数年後、

 わが国と呼ぶ国もたずかりそめの胸の大地はいま砂嵐

という一首を含む一連が、短歌研究の新人賞をもらったけど、そのときに作者は在日外国人だろうと言われて、面食らった。日本をわが国と言えない、言いたくない、のは日本人の私で、それはごく自然な心情だと思っていたから、驚いた。

この一首だけが原因でもないが、とにかく、在日外国人、在日朝鮮人と思われたのだ。はいそうです、とも言えないので、いいえ、日本人です、といちいち訂正しなければならない。その度に、21歳のあの釜山の秋から、のみこめず、はき出すこともできない「わが国」が、喉のあたりでくるしい。

それでも、それから十数年たって、ようやくのみこんだ。(のみこんだか?)

 空と風と星の詩人を獄に殺した(わが国というべし)わが国

詩集「空と風と星と詩」の詩人、ユンドンジュは、留学先の日本で、治安維持法で捕らわれ獄死させられた。あの時代、殺されたのはむろん、ひとり朝鮮詩人だけではないが、彼に連なるような、若く、美しい精神の数々を惨殺したのは、たしかに「わが国」というほかないものだ。

というようなことを、思い出したのは、河津さんのブログに触発されて。
http://reliance.blog.eonet.jp/default/2010/09/post-ff38.html

「自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法である。」と、マイケル・サンデルは言っているらしい。

十数年かけてたどりついたことも、こうして書かれると、たった一行なんだなあ。国への忠誠を表明したいなどとは思わないんだけど、しょうがない。あの日、釜山の街角で、「わが国」というオッパヤーの声を聞いてしまったことのなりゆきは、こういうふうになるほか、ないんじゃないだろうか。

元気ですか。パクチェフン氏。あのとき港で、「モモ」の話をしてくれたから、あれから「モモ」を読みました。エンデの。