生きることほど

大阪にいる間は泣かなかったのに、帰りのバスに乗ったら、涙がにじんできた。本当にうれしかったのです。ありがとうございました。

金曜日、大阪へ。河津さんと、在日の詩人たちの文学集団「文芸同」の会合に行った。
朝鮮学校無償化除外反対反対アンソロジー』の作品の朗読と感想を聞きながら、詩の言葉、感想の言葉、言葉のひとつひとつが、人生の表情をもっていることに、ドキドキした。怒りと悲しみと愛がある。率直で、飾りがない。とても個性的。あたたかくて、楽しい。
こういう言葉を、聞きたかった。人間の言葉。その人のアイデンティティと深く結びついた、血が流れている言葉。
そうして、はじめて会う人たちが、とてもなつかしく思えて不思議だった。

「生きることほど、 人生の疲れを癒してくれるものは、ない。」
というウンベルト・サバの詩の一節を思い出した。

他者の人生、その存在感に、癒される。励まされる。励まされるというのは、そういうことなんだと思う。 そのような人生、存在感をもっている人たちと一緒にいられることがうれしい。

河津さんが、このアンソロジーを企画したこと、それから、ふだんはハングルで詩を書く人たちが、日本語で詩を書いたことの意味は、決して小さくない。(この国に、ハングルで詩を書く人たちがいるということも、私は最近まで知らなかったんだけれども)
そこに、友情の回路が開かれたことは、無償化の問題を超えて、何かとてもすごいことだ。

もしもこの人たちの言葉が通じないとしたら、心や生活史に思いをはせられないとしたら、政治家であれ詩人であれ誰であれ、日本語でもの書く人たち、もの言う人たち、えらそうすぎるわ。
えらそうすぎて、顔見たくない。

人生は、あんまり長くない。労苦は多い。どんなもっともらしい理由をつけたって、いじめたり憎んだり、人を貶めたり自分を飾ったり、することは、ばかばかしい。励ましあって生きるほかになすべきことはない、と思う。

ほんとうに苦労して生きている人の、疲れをいやせない人生、存在、あるいは言葉、はどんなに格好つけたって、貧しくてさびしいことだ。
飾りの多い、見せかけの人生って、口で何言ったって、ほんとのところで他人を励ませないし、癒せない。
そして、臆病な人間は、ついに残酷になる。

朝鮮学校は、みんなが家族のようですよね」と言ったら、「家族のよう、ではなくて、家族なんです」って言う。そんな学校があるということを、たとえばパアララン・パンタオを知らなかったら、想像もつかないだろうな、と思う。

学校が、生徒を大事にしてくれるところである、なんて、パアラランに行くまで、私は夢にも思ったことがない。

うちの子が、もしも日本の学校でいじめられて、行くところがなくなったら、朝鮮学校で受け入れてもらえるだろうかって聞いたら、喜んで受け入れる、民族も国籍も問わない、広島の学校に言ってあげる、って言ってもらったので、私は一安心なのだった。セーフティネットがある。

このセーフティネットを滅ぼしたい人たちは、たとえば私の子どもが、日本の学校でいじめられたときに、どんなセーフティネットを用意してくれるんだろうか。できないよ。

日韓併合から100年たって、100年変わらない日本。
在日の人たちをこんなに傷つける日本という国は、日本人の子どもにも残酷な国だろう。

土曜日、朝鮮初級学校に連れてってもらった。隅っこで、校長先生が汗だくになって、空き缶潰しをしていた。それ見て、いっぺんに私はその学校を好きになった。先生も子どもたちも親たちも、みんなが挨拶してくれる。笑顔を向けてくれる。その笑顔がいい。

こんなに激しくバッシングされるのに、権力からいじめられるのに、経済的にも苦しいなかで、にもかかわらず、子どもを朝鮮学校に通わせる親御さんの気持ちはよくわかる。学校の空気感がすごくいい。愛があるのだ。

愛の反対は、無関心である。
日本人は、孤独によって疲労している、と思う。

人生の幸福は、敬愛できる人たちに出会えることだと思う。
お土産にもらった餅を抱えながら、しみじみとわが身の幸福を思いました。