ヒトになりたい

朗読会で、「突堤のうた」「市場の生活者」の2編の詩の次に、真碩さんが読んだのが、テント芝居の台本「ヤポニア歌仔戯 阿Q転生 第2章 夜鍋の葬祭」の次のようなセリフ。

「母親は、魚の行商でようやく買えたりんごを、私らのために剥きながら、私らに話すともなくこう言った。──読み書きのできなかったときは、まいにち壁にむかってにらめっこしてた。心がさみしくてしかたなかった。心が足りなくてどうしようもない。どうしようもない私がリヤカーひいて歩いている。腐りかけの魚を心配する心だけで歩いている。足りない心で歩いている。とにかくヒトになりたい。──母親は、毎晩、広告の裏に字を書く練習をした。それはこのクニの音ではなかった。か・な・た・ら・ま・ぱ・さ・ちゃ──とぎれとぎれの母親の魚くさい声が、狭い部屋の電灯の下により集まって「ヒトになりたい」「ヒトになりたい」という言葉となった。電灯の下で寝ていた私は、その言葉を目を細めて眺めていた。ヒトになるのは大変やね、かあさん。私にはムリかもしれんよ、とぼんやり思いながら、もう私は眠っていたようだった。……以下略……」



昔、横浜の寿町のドヤ街に、週に一度、夜に、生活館の何階だったかの一室で識字学級が開かれていた。寿識字学校っていう、ボール紙の札が教室にかけられていた。1995年頃、何度かそこに通った。

フィリピンで一緒にパアラランに行った学生が、帰国して、卒論で識字学校について書くので、行きたいんだけど、ひとりはこわいから一緒に来て、というのでつきあったんだっけ。

生活館の入り口の糞尿を避けて、階段をのぼっていくと、教室があり、先生がいて──大沢敏郎先生だ──、その教室だけ妙に明るかった印象がある。コの字型に並べた長机の上には、きれいに削られた鉛筆が置いてあって、席に座ると、先生が、熱いお茶を入れてくれた。そこでは、先生が生徒にお茶を入れてくれるんだった。
やってきたおじさんたちおばさんたち、若い人もいた、紙の上にそれぞれ、作文を書いていく。ときどき先生にわからない日本語の書き方など質問して、先生が答える。前の時間に書いたことについて、簡単なやりとりがあったりする。それで、そこにいる人たちのことをすこし知ることができる。韓国から働きにきているおじさんは、学校に行ったことがない。侵略下の朝鮮で、父親が日本の学校に行くのに反対したので行かなかった。生まれてはじめて文字を習っていた。在日朝鮮人のおばさんは、文字が読めないので役所に行くのがこわかったと言った。バスに乗るのも電車に乗るのもこわかった。中華街にある店の下働きをしてた。日系ブラジル人の少年もいた。作業着のまま、しずかで一生懸命な横顔だった。

いい空間だった。ひとりひとりの人生が尊敬されていた。作文のたどたどしい日本語が、それは、そんなに深刻な話でもなく、仕事のことだったり、家族のことだったり、ほんの日常のことなんだけれど、胸に迫る。とてもたどたどしい日本語が。
その教室では誰もが生徒だから、私も学生も、何かを書かなければならなかったし、何かを書いたと思うんだけど、おぼえていない。
おぼえているのは、あの場所で、自分の日本語がものすごくみじめなものに思えたことだ。
そのころフリーライターを生業の一部にしていて、それだけでやっていくのはしんどいから児童館のバイトもしてたけど、一応、日本語書いて食っていたんである。そんなことはもちろん言わないんだけど、別に私は取材で行ったわけではないし、ただのフリーターでそこにいたんだけど、あんなに自分の日本語がみじめに思えた夜はない。
圧倒されていた。学校に行けなかったことの、そこにあった差別を、差別とも言わないで、黙って生き抜いてきた人たちが、ようやくたどたどしいひらがなやカタカナで書きはじめた人生の光景のひとつひとつが、文字によって、尊厳を与えられてゆくようで、ただ圧倒されていた。そんな尊厳を、私の日本語は、知らない。

横浜まで通うのが、そのころ体力的にも精神的にもかなりしんどい状況で、電車代もしんどくて、学生がなじんでひとりで通えるようになると、もう自分が行く理由もないし、行かなくなったんだけど、あの経験は忘れられない。
ときどき、その後も通いつづけた学生から、識字学校の話を聞くのが好きだった。韓国から働きに来ていたおじさんが、帰国することになったとき、先生が、韓国風に、銅板の卒業証書を用意した、という話を覚えてる。

2年前、大沢先生が亡くなって、識字学校もなくなった、という話を、この夏に聞いた。さびしいな。

学校って、行かなければいけない場所だった。行きたくなくても行かなければならない場所で、家にいることもほかのどんな場所にいることもつらかったりしたから、まだ学校に行ってるほうがよかったから行けたんだけど、大学生になったら行けなくなった。行きたい場所ではなかったんだな。
単位がないから、卒業するまでに6年半かかった。

心がなついていく。学校、という場所に心がなついていく。そういう学校もあるんだと、パアララン・パンタオに行ってはじめて知った。寿識字学校もそうだった。心がなつく。そんなふうに生徒たちがいる。そんなふうに、心がなついて、なついたままの心で学校に行けたら、どんなに幸福だろう。

もの書くことは、あの夜に立ち返ることでありたいと思う。自分の日本語が、もっともみじめだった、あの夜の教室に、いたいと思う。

そう、ヒトになりたい。