きみがよ

十代半ばの、ある日突然、君が代が歌えなくなった。
それまで何にも思わず、歌えていたのが、ある日突然。
歌詞の意味を理解したときから。
それまで、歌っていても、歌詞の意味なんて考えたことがなかったので、外国語の呪文みたいなもんだった。

思えば、百人一首の歌も、正しい意味なんか考えることもなく覚えて、今だに意味を知らずに遊んでいたりするほどで、実際の百人一首の歌世界と、私の頭のなかのイメージはまったく違うものだと思う。「むらさめの」ってきたら、里見八犬伝で犬塚しのがもっていた刀が思い浮かぶもんね、まず。「ひとりかもねむ」ときたら、「鴨」が浮かぶ、どうしても。そうでないとわかっても、鴨だもん。

で、きみがよ。「さざれいしのいわおとなりてこけのむすまで」
砂が岩になって苔が生える。ふつう、それは逆だろう。岩が砂になるならわかるが、その反対はないと思う。と、ある日気づいた。
砂が岩になるには、火山の爆発とか、天変地異のなんか大きな圧力がかからないと無理なんじゃないだろうか。時間を逆行させるのか、無理な圧力を求めるのか、そうまでして千代に八千代に存続させたい、きみがよ、って、何。君が、天皇だとして、千代に八千代に存続させたい情熱は、私にはない。君が家族や恋人だとしても、千代に八千代にはさすがに飽きるとおもう。もうかんべんしてって、どこかで思うよ。

と思ったら、歌えなくなった。それから今にいたるまで、砂が岩になるという時間への逆行の意志、あるいは天変地異を願う心を、どうしてものみくだせない。

もうずっと以前だけど、戦前に韓国に渡った日本人妻たちの老人ホーム、慶州のナザレ園で、もう何十年も日本に帰ったことのないお婆さんたちが、涙を流しながら、君が代を歌っていた映像に、ショックを受けた。旋律が全然違っていた。君が代じゃない君が代だった。

君が代は、国歌なんだっけ、国歌じゃないんだっけ。知らないんだけど、国歌にするとかしないとか、いつか言ってたっけ。
どうしてこういう歌えない歌を国歌にするんだろうなあ、と言ったら、どこの国だっけ、海外の日本人学校を知っている人が、そこで、日本から遠く離れたところで、どんなに大切に君が代が歌われているかを話してくれたっけが、そうか、とりあえず私は君が代を歌えないが、ほとんど生理的に受けつけないが、ほかの人たちには歌える歌なんだ、と気づいて驚いた。

音楽の教科書にのっているから、子どもがピアノでひいていて、どこかで聞いた旋律だなと思って、それが君が代とわかるまでに、すこしかかった。

きみは、どんなふうに、折り合いつけてゆくんだろう。国とか学校とか家族とか友だちとか、それから君自身と。
人生のどこかでは、砂が岩になるような天変地異が起きるかもしれないことと。