風の共和国

「革命」という言葉には惹かれるものがあったのだろう。

中学生のときに世界の歴史シリーズのフランス革命の巻を図書館で借りて、暗記するほど読んだ。今はすべて忘れたけど、誰がいつギロチンにかかったかまで覚えていた。それからロシア革命の巻を読んで、そのあとショーロホフの『静かなドン』を読んだあたりで、革命熱が冷めた。15歳。

たのしい革命は、トランプの大貧民のゲーム。4枚揃えて「かっくっめいっ」と下克上をやる快感。下克上やったからって勝てるわけでもないが、4枚揃ったら、そりゃ、するよねえ。

はじめてパヤタスのゴミの山に行ったとき、ゴミの山で、ゴミ拾う子どもたちを見ながら、この子どもたちを世界の真ん中に置きたい、と思った。
ゴミを拾う子どもたち。地図にない土地に、出生の記録ももたず、文字も知らず、すりきれて色をなくしたシャツを着て、ゴミのなかにいる子どもたち。忘れられた子どもたち。
この子どもが中心である。世界のあらゆる機能が、この子どもたちの幸福のために動いたら、世界はどんなふうにかわるだろう。
そのような世界を見たいと思ったのが、たぶん私の革命のはじまり。

パアララン・パンタオ、ゴミの山の学校の支援をはじめるときに、まず気づいたのは、自分が変わらないといけないということだった。
具体的には「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えないといけないということ。それから、善意だから善とは限らない、善意が善であるためにはどれほどの注意深さが必要だろうと、そういうことをしきりに考えた。

同情とか憐憫に対して「ありがとう」と応えねばならないという屈辱感とか敗北感なら骨身にしみていた。善意や好意に対してつれなくすると怒らせたり憎まれること、だから「ありがとう」や「ごめんなさい」を言っておかないと、いろいろこじれるのに、私はすぐそれを忘れてこじらせてしまう、そのような「ありがとう」と「ごめんなさい」。
つまり「ありがとう」とか「ごめんなさい」とか、言うことも言われることも、私は嫌いだったのだ。

パアラランの支援をはじめて、私ははじめて「ありがとう」というのは感謝の言葉なのだということを知ったと思う。それはとてもうれしい、気持ちのよい感情だということも。そしてそれは、私には、細胞の組み替えが起きるくらい、何かしら革命的なことだった。

人生というのは、どこかにたどり着かなければならないもののように思っていた。走っても走っても、息をきらして走っているのに、どこに向かっているのか、どこにいるのかどこを目指せばいいのか、わからなくて発狂しそうだった。
でも人生というのは、たぶん、どこかにたどり着くというものではなくて、誰かとともに生きてみるというなりゆきのことなんだなあと、ゴミのなかから拾われた子と、一緒にごはん食べながら、私は了解していったような気がする。この子たちと一緒にいたい、と思った。
それもまた、革命的なことだった。

「革命」というのは命を革めると書くんだなあ、と今さらながら思う。



月に1度か2度、図書館に行って、新聞読んだり雑誌読んだり、子どもの絵本たくさん借りて帰ったりする。

それで久しぶりに「短歌研究」ぱらぱらめくったら、重信房子の短歌が載っていた。
彼女の革命がどのようなものかは知らない。関心もないのだが、短歌は、思わずメモした。
なんというか、そこには他者がいて、自分のまなざしの檻のなかにかかえこんだような他者ではない、他者がいて、「革命やろう」と言っていた。
「風の共和国」というタイトルにも惹かれた。
彼女の革命がどんなものか、夢見た共和国がどんなものかわからないけれど、それは誰かとともにあった青春、ではあったのだろう。
リッダは、パレスチナの街の名前だと思う。

「風の共和国序章」 重信房子

羊飼いオリーブの枝ふりあげてこっちこっちと我らを誘う
地獄でまた革命やろうと君の文リッダの炎八日後に届く
闘いの未熟を詫びつつ頭あげて最後の陳述われテロリストに非ず
ことだまのゆきかう道は漆黒の獄舎に降りる銀河鉄道
一炊の夢と嗤うか確かなる我らの砦 風の共和国