他人の青春

新年も、もう1か月過ぎようとしていて、はやいなあ。
年末に、息子が帰省してきたのが、青春18きっぷで2日かけて帰ってきたのはいつもの通りだけど、ちょっと心配な感じだった。頭皮をひっかいてかさぶたになってるし。

疲れ果てながら、自分が疲れていると気づかない、そして何も手につかない自分が不可解、という状態なら、私も身に覚えありすぎる。

わりとあたたかい冬だなあと思っていたけど、寒い寒いと、息子は言う。
きみは南の国からかえって来たんだよね。渡り鳥だな。
郷里の兄から、じゃこ天とかまぼこ届いて、まあまあお正月。

1日、息子と一緒に映画に行った。去年も行ったな。「窓ぎわのトットちゃん」は、いい映画だった。ポップコーンもお正月のぜいたくのひとつ。映画が終わって、スマホを見た息子が能登地震のニュースに気づいた。
この寒い時期に、つらいことが起こった。

2日、電車でどっかに行った息子は、風邪ひいて帰ってきた。ゆっくり休めばいいのに、電車に乗らないと死ぬとばかりに、出ていって。
中高の同窓会は出席しないつもりだったらしい、最初から。成人式は、日程あわないし、出席しない。
私もそうだったけど。きみは出席してもよかったんだよ。男子はスーツで事足りるのだし。

あとで同窓会の写真、友人たちのインスタのを見せてもらったら、女の子たちが着飾って、きれいになって。その数日後には成人式の着物も着るわけで、いやいや、ひるむ。私はひるむ。

自分の成人式の日に、昼から深夜まで働いていたのは覚えている。着物姿の若い子たちが次々くるから、水やら料理やら運びながら、結婚式かなと思って、ああ成人式かと思い至ったときの、奇妙な気持ち。おんなじ二十歳だけど、向こう側にいる人たちのことが、見当もつかない、あちらは異星、さもなければ私が異星。

 

家族で車で鹿児島まで行く。息子も運転するので、パパは楽になった。
風邪と頭痛鼻水。息子の部屋でぐうたら過ごす。でも、たまて箱温泉には行った。開聞岳見ると、果てに来たことの満足感あるよね。開聞岳みながら露天風呂のぜいたく。

去年、バス停ができたので、鹿児島市内からバスで行けるようになったらしい。
石蕗の花は秋と思うし、菜の花は春と思うけど、ここではいまごろ一緒に咲いている。

道端で不思議な看板を見かけた。
「密航・密輸の発見にご協力を」と書かれた指宿警察署の立て看板。

「密航とかあるのかな?」と私が言ったら、「あるだろ。その昔はポルトガルとか」とパパ。
いつのポルトガルよ。

 

青春18きっぷの残り2枚で、パパと肥薩おれんじ鉄道に乗りにゆく。フリーきっぷを買い足すと、どれだけでも乗れるのだ。朝、鹿児島を出て、熊本まで行って、夜、帰る。

昼、天気がよかったので、海の青さが、すばらしかった。帰りは夕焼けが。

熊本城は地震のあとの、崩れたのを見て以来。石垣をいまもなおしていた。楠の大木に会いたかったのが、あたり整地中で立ち入り禁止残念。
八代で、おれんじ鉄道乗り換え。八代の駅で鉄道のカレンダー買って、ちょうどそこで、八代亜紀が亡くなったことを知る。八代の人だよね。またひとつこころぼそい感じがする。

出水は、ツルの飛来地だけど、ここに出水があるとは知らなかった。来年の楽しみにする。1日中がたんごとんゆられていた。窓からの風景見ていたら、久しぶりに、子どものころの暖かい冬の、おだやかなお正月を思い出したりした。

がたんごとんゆられているのが、楽しかった。この路線はすごくいい。夏に片道乗って、また乗りたかったの。そしてまた乗りたい。

 

広島に帰ってきたら、寒いね。

そして忘れずに、雪も降った。

高校生のとき、修学旅行ではじめて行った東京で、一度だけ会った人の名前をふいに思い出し、この世いやですね、検索なんかできる。ま、わかんなくてほっとしたんだけど。修学旅行で遊びに行った、とある編集室の話は、たどれた。有名になった人、亡くなった人も。ずいぶん年上と思っていたけど、まだ20代30代だったのか。

あれやこれやの、他人の青春を、思ってみる、など。

 

月を追う途中の

なんて久しぶり。ブログひらくの。何があったわけでもなく、何もなかったわけでもないのですが。
パアラランの写真展終わり(3月にまた隣町の別の公民館でやる予定)、国際協力バザーも出店できた。パアラランにクリスマスの送金もできた。友人のみなさまには大変にありがとうございます。クリスマス・パーティのご報告はまた。

今年も終わりますね。こないだ雪が降って、靴に穴が開いていることがわかった。私いま、息子の履けなくなった靴をひとつずつ履きつぶしているんですけど、穴が開いていることに気づくのは、必ず冬の雨か雪の夜だったなあと、思い出したり。
夏に足が濡れてもつらくないから、やり過ごすんだけど、冬は痛くて冷たくて泣けるから、やり過ごせなくて、靴を買うのはいつも冬の日だった。
次の靴を履こう。

そんなに何もかも覚えているわけではないのだけれど、それなりに記録していることを、読み返せば、ついさっきまでそこにいたみたいに、思い出せる。子どもがまだ小さかった頃のこととか、ほんとにありありと。2歳か3歳くらいの子が目の前に浮かんで楽しいんだけど。
二十歳になった息子からは、試験不合格だったーとか、再試がいくつ、みたいな楽しくない話が届いて、むかむかしてくるのであった。
(この心配のむかむかは、私がまさに、二十歳のころに、生活も学業もどちらもどうにもままならなくなってしまったことが、フラッシュバックされてしまうせいでもあるんだけれども。ほんのすこしの知恵とか知識とか工夫とか、それで避けられる苦しみを避けられなかった悔しみとかとか。)
離れていて、目の前にいないからね。私のなかには、かわいいほうの坊やも、かわいくないほうの坊やも、同時に存在しているのが、不思議な感じだ。
それにしても、あのかわいい子はどこへ行ったのだ、私のかわいい坊やを返してくれないかな。
かわいくないほうの坊やは、年末ぎりぎり帰ってくるんだろう。

振り返りましたら、この1年、蝦名泰洋さんの歌集が出せたことが、まずよかった。もうそれだけでじゅうぶんです、私。歌人の仕事としてじゅうぶん。

短歌研究年鑑の「2023歌集歌書展望」に、林和清さんが「ニューヨークの唇」とりあげてくださっていた。
「なんという寂しい心を持った人なのだろう。そしてまちがいなく優しい心を持つ人なのだ。無国籍風の物語的な歌だと思われるが、彼の歌にはそれを超えた根源的なものがある。孤独を知り尽くしたものだけが、孤独を通じて届けられる明るみを読者は手にするだろう」

昔、蝦名さんと親交のあった、詩人の別所真紀子さんから、お手紙いただいた。「潔癖な勁い魂を持った方でした。惜しまれます」
うれしく、ありがたく。そうでした。あの人は勁かったのでした。さびしさとなつかしさと。
本、読まれてほしいと思います。読まれるでしょう。月を追う途中の私たちに。

二十歳

11月1日 all saint day 万聖節万聖節の日だから、あなたの息子の誕生日は覚えてる、ってレティ先生が言ってたな。レティ先生のお墓まいりに行きたいな。

10月30日から11月12日までの2週間、隣町の市民センターで、パヤタスのゴミ山とパアラランの写真展示やることになって、準備していた。
写真はもう、以前に使ったものの使いまわしなんだけれども、昔の写真見てたら、なんかいろいろ思い出して胸が痛い。

これは1999年の写真。真ん中の女の子の名前はジェナリン。11歳。その前の年まではパアラランに通っていた。でも10歳くらいになると働き手なので、親に理解がないと学校に通わせてもらえなくなる。
出生証明のない子も多かった。いま、ほとんどすべての子が出生証明があって、小学校に通えているのは、夢のようなんだけれど。

適当な展示なんだけど、展示した写真眺めていたら、いつかお金できたら、写真集つくりたいかな、と思った。ゴミ山も閉鎖されて、記録も記憶も消えてしまう。忘れるはずないと思っていたのに、忘れてるもの、子どもたちの名前も。

自分の息子のことも、忘れてるもんね。昔の記録見たら思い出すけど、でも別の子の物語のような感じがしてくる。そしてたぶん、私が記憶しているあの子の物語と、あの子が記憶しているあの子の物語は、たぶんちがうのだ。

すこし前に、「ぼくは対人恐怖症かもしれない。精神科に行ったほうがいいだろうか」などと言うから、え、まだそんなことで悩んでんの? と思ったけど、いやいや、そういうことで悩むような年頃なんだわ、青春だわ、自分探しの地獄だわ。

今日、彼は二十歳のお誕生日。何かほしいものあるって聞いたら、別にないって。午後、休講なので、乗りたかった電車に乗って、温泉行くんだって。良き。

ところで、子どもが大人になったとき、親ってどういうふうに存在するもんなんだろうか?

18のときに母が死んでいるし、そのあとは私のなかでは父もいない感じ、もう親はいないものと思って生きてたし。二十歳の私から見たとき、母はもう存在しなかったのだけれど、二十歳の息子からは、まだ生きている父と母が見えているわけで、ああ、何が見えているんだろうなあ。まあ、あんまりこっち向かないよな。

 

 

南へ

ようやく朝夕肌寒くなって、長袖探したけど、衣替えはまだ。ああ、いろんなことが、まだ。

夏の旅の話を終わってしまおう。青春18きっぷの残りがあるので、9月10日まで使えるので、まず福岡まで行った。街なかの喫茶店が昭和っぽかったのが、なつかしい感じがした。会いたかった人たちに会えて、一泊して、翌朝、博多からまず鳥栖行に乗って、本を読んでいたら、なんと、電車はまた博多に戻っていた。終点に着いたらしばーらくは動かないもんと思っていたのに、すぐに引き返したんだな。そういえば、途中で向きが逆になった気はしたんだけど、気のせいかと思ったんだけど。とにかくやりなおし。
でもそれで、八代からの肥薩おれんじ鉄道が夕方になり、海に沈む夕日が見れたからよかったわ。

  逢はむというそのひとことに満ちながら来たれば海の円(まろ)き静まり 
                         志賀狂太

志賀は石牟礼道子の歌友で、水俣に会いに来たときの歌。水俣を通り過ぎるときに思い出した。狂太は人吉の山の中で服毒自殺。

  まぼろしの花邑(はなむら)みえてあゆむなり草しづまれる来民(くたみ)廃駅
                         石牟礼道子

来民は、狂太の出身地。死後十年ほど後に訪れたらしい。そして歌との別れ。
きっとふたりともが抱えていた、この世への違和感。なぜ、とわからないけれど、なにか根源的な。下駄履きサンダル履きで海を見ていたのだろうなあと、若い頃の石牟礼道子の写真を思い出したりした。

夜、鹿児島の息子の下宿に着く。パパと息子は、車で帰ってた。
翌日、青春18きっぷが使える最後の日、まだ余ってたので、私とパパと、宮崎に行くことにした。宮崎ははじめてかも。青島。ああ、昭和の新婚旅行ごっこ(私は新婚旅行というものをしたことがない)。面白かった。マンゴージュースおいしかった。

翌日は友だちと映画見てしろくま食べて、

その翌日は家族で桜島の道の駅で、ようやくカンパチ丼にたどりついた(いままで何度も売り切れで食べられなくて残念だったのだ)。港から近い温泉が故障中なのでバスで別の温泉に行く。おばあさんたちが、野菜おいてったり買ってったり、おしゃべりしてるのが、なんか妖精みたい。親しんだ土地で、親しんだ人たちといっしょに老いていける感じが、いい。

郷里を出て行くことを考えたのは仕方ない、と思う。田舎の高校生はそうなる。そうして出て行った先から、また出て行くことになり、気づくと、どこにいても、いてはいけない場所にしかいない、かりそめにしかそこにいない感じ。私はどこでどうやって、落ち着いて老いるのだろう。ま、落ち着かなくても老いるけど。

その次の日も家族で、もう息子の運転で車に乗るのも平気になって、たまて箱温泉。海に向いた露天風呂、右に開聞岳、左に奇岩。誰もいないわ、私は裸で、海は青いわ、すごいわ。

 

愛媛に帰省したのからはじまって、あとは青森から鹿児島まで、岩木山、富士山、桜島開聞岳まで、見てきた夏だった。気がすんだ。

友人のみなさまに、心から、心からありがとうございます。

おうちに帰って、パアラランのニュースレターの作成発送、がんばった。フィリピン、もう4年行ってない。最初に会ったとき、5歳だったグレースが、10月5日が誕生日なんだけど、いま中国で働いているらしいんだけど、もうあのときの私の年齢を超えていると気づいて、驚き。屋根の上のバイオリン弾きの、サンライズサンセットが、耳にもどってくるわ。
レティ先生にものすごく会いたい。私でさえ、さびしい。グレースがどんなにさびしいかは、想像もできない。

みずうみへ

旅は、ひとりがいいに決まってると長いことそう思っていたけど。家族ができると家族で移動するし、旅というより移動だけど、ひとりじゃない旅をするようになる。11歳になった息子との旅が、意外に楽しかったし、そのあとも楽しかったので、人と旅することもいいなと思えるようにはなった。

十和田湖、遠すぎてひとりで行ける気がしなかったので、誘ったら、河津さん、青森まで来てくれた。おかげで楽しい旅行だった。もう、いろんな意味で。
さて、十和田湖がどこにあるかも、奥入瀬がどんなところかも、ほとんど知らないまま、早朝、バスの切符買って乗った。奥入瀬そんなに長い距離を歩くもんとは思わなかった。荷物が。靴が。しっかし、きれいだった。体のなかがまるごと渓流に変わってゆく感じ、ただただ気持ちよかった。

 

半分歩いて、あとはバスに乗った。残り半分は、いつかまた歩きにゆこう。

十和田湖に着いて、宿を探す。最安値を予約した私の責任ですけど、いつも最安値を探すんですけど、ここは凄かった。まず、建物に人がいない。

──ようこそ、限界ホステルへ。

という感じのオーナーの挨拶文によると、高齢高血圧糖尿病でコロナリスク高いので出勤しないという。紙に、日本語と英語でいろいろと指示が書いてあって、代金ここに入れての貯金箱があり、領収書自分で書いての用紙と印鑑があり。

お風呂は近くの立派なホテルの入浴券がおいてあり、料金入れての貯金箱あり。冷蔵庫の飲み物は200円、ごはんや麺は賞味期限切れなので安くて100円、貯金箱あり。
シーツとカバーは自分でかけてね、朝ははがして、ボックスにいれてね、ガムテープおいとくから、カメムシでたらこれでとってね、等々、
なんか注文の多いホステルの、床は、踏むと沈む。廊下の壁紙はがれてる。
建物、古すぎる。庭は草ぼうぼう。昭和時代のビジネスホテルというか、合宿所というか、がそのまんまな感じ(田舎には、ままあるが)。だだっ広すぎるのに、私たち以外、誰もいない(あとで、バイクツーリングのお兄さんひとり宿泊した模様)。部屋の天井のシミがすごくて、天井も剥がれかかってる。蛍光灯のカバーもない。

ひとりなら、こわさみじめさ、かもしれないけど、友だちいてくれるので、泣くほど笑った。オーナーのおじいさん、紙に書いた文章ひとつで、商売つづけようという心意気は、なんか、せっぱつまっていていいんじゃない? などと。

けど、真夜中に、寝ていたのを、天井裏を走っていったネズミの音で起こされたときには、鍵付き貯金箱につつこんだ代金、返してほしくなった。学生時代の下宿に、ネズミ出たことを思い出した。夜眠れなくて発狂しそうだったこととか。

しょうがないので、笑った。笑った笑った。楽しい思い出だわよ、ほんと。

朝ごはんは無料。冷蔵庫のパンと牛乳、自由にどうぞって。いい子なので、賞味期限の古いほうから取っていきまして。2日ほど期限過ぎてましたけど。

近くのホテルの温泉が気持ちよくて、そのホテルのなかのお店で食べた牛丼がおいしかったので(ほかにごはん食べるところが見つからなくて、どうしようと思ったけど)救われた気持ちでした。

ひとりで来なくてよかったわ。

満月だった、月のきれいなこの夜、私の息子は、友人たちと箱根のホテルに泊まって、一泊二食のその豪華さにふるえていたらしい。宿泊料金は母の10倍ですね。なんなん。
ひとりのときはネットカフェ転々してたらしいけど。

 

十和田湖畔。湖はしずかで銀いろのさざなみ、きれいだった。あたりは閑散としていた。人がほとんどいない。道路のアスファルトから草が生えている。

あたりの大きな建物が、ホテルもレストランも、のきなみ廃屋。東北の震災のあと、観光客が激減した、コロナでまた激減した、大きなホテルやレストランほどやっていけなくなったのらしい。重機がはいっているのは取り壊しのため。借地の権利がなくなった場所から、取り壊しているらしい。にしても、廃墟感はんぱない。

旧、休屋旅館をさがした。旅館は200×年にオーナーが変わって十和田湖ホテルに。新しいオーナーは東京の人で、新幹線で行ったり来たりしていたが、新幹線のなかで急死したらしい。2012年廃業。

 

かっては天皇家も泊まったというホテル、300人泊まれるというホテルは、荒れて、虎杖が茂っていた。

むかし休屋旅館には、ねぶたが飾られていた。ホテルのなかで、ねぶた祭をやった。従業員が笛も吹いたし太鼓も叩いた。テレビ局が取材に来た。A級ホテルだったのよ、と近所のお土産屋さんのおばさんが言った。おばさんも、呼ばれて跳ねっこをした。修学旅行で泊まった女の子たちも踊ったのかな。フロント係の蝦名さん、笛吹いていたらしい。

夢の跡。

十和田神社あたり、森の小径は素敵だった。この深いなつかしさはなんだろう。
あのこぶしの花びらも、このあたりから届いたのだろう。
なんか、気がすんだ。帰りのバスは八戸行。八戸駅でいかめしとせんべい汁食べたのがおいしかった。青い森鉄道のモーリーくん見つけて買った。欲しかったの。

 

十和田湖、遊覧船が止まっていた、そういえば。乗ればよかったな。あたりがあんまり廃墟なので、運航している感じがしない、静かすぎて、生きた人が乗っていい船の感じがしなかったんだ。

  桟橋は廃墟となりて数本の杭がかたむきぼくを待っている (蝦名泰洋)

 

こんなの、見つけた。廃屋の撤去予定図。


気がすんだ、と思ったのに、廃墟オタクでもなかったはずなのに、また行きたい、と思ってる。廃屋たちが取り壊されると思うと、心がざわざわする。壊される前にまた行きたい。がらんとした光景のあの廃墟をさまよいたい。
乗り損ねた遊覧船にも、乗りたい。

 

ないじょうし

東京まで来ると、東北や北海道へも行けないことはないみたい、という気がしてくる。それで、東京に住んでいたころに、北海道まで青春18きっぷで行ったのが、30年前ですか。遠すぎて、ほとんど気が遠くなりそうだった。1日でたどりつかないから、どうしたんだっけか。夜に誰ものっていないような車両で、もう横になって寝てたら、話し声がする、外国の言葉、どこの国だろう、田舎の父が、仕事先で女の子らが聞きなれん言葉で話していて、どこの方言かと思ったら、フィリピンの子らだった、と言っていたころだったから、こんなところにも、フィリピンから来てるのかなあ、と思いつつ、体を起こして見てみたら、地元のおばあさんたちのおしゃべりだったのが、なんも聞き取れんかったこととか、思い出しますけど。

北国で生まれて北国で育って生きて、ってすごいことだと、思う。私、絶対かなわない。むかし北海道で、駅で、町の嫁探ししているらしいおじいさん、眉毛の白くてふさふさしたおじいさんに声かけられたとき、無理、と思いましたもん。こんな寒いところは無理、家があって土地があって車あっても、どんないい人でも、どんな財産あっても無理、と思いましたもん。3月でしたが、3月に雪なんて、泣きそうになる。フィリピンからも嫁に来てる、って、おじいさん言ってたっけ。ああ、南の人たちもえらいです。

私は半端な四国産なので。池みたいな瀬戸内海渡るのも、すんごい勇気が要った、むかし。

さて夏の旅のつづき。
仙台一泊のあとは新幹線で八戸、青い森鉄道で三沢。わざわざ迎えに来てもらって、ありがとうございます。寺山修司記念館。森の散歩道、よかった。
来てみないとわからないことって、たくさんある。道の遠さも。りんごの木も。米軍基地の近くの轟音も。地面と空のだだっ広さも。

 

それから青森市へ。記憶にあるのは、夜の青森港。青函連絡船で渡った。青函トンネルをくぐったこともあるかな。
暗くてさびしくてたよりなかった記憶の、上書き。港のりんご。

会ってくださった方たち、ありがとうござます。とうもろこしの茹でたのもらって、宿で食べたのが、おいしかった。
弘前泊で、翌朝、お城と長勝寺と行った。なんでしょう、この暑さは。東北にいる間ずっと34度とか36度とか。何かの罰ゲームみたいに。お城でチケット売ってる女の子が、紅葉の前に葉が落ちちゃって、今年の秋まつりどうすべ、って話してるって言ってた。

 

電車の路線図とか見てると、行き着く先まで行きたくなる。ホームで止まると、降りたくなるし、行先違う電車も、ドアが開くと乗りたくなる。けど。撫牛子のなんもない駅に降りてみるだけにした。撫牛子(ないじょうし)、地名に痺れる。

 どんな子がきっと私に似てる子が撫でていたのだろう撫牛子 (蝦名泰洋)

青森市に戻って、来年なくなるかもしれないと噂の棟方志功記念館に行った。昔の番組流しているのが、よかったな。ああ、こういう表情で、こういうふうに木を彫って、こういうふうに色を置いて、生きていたのか、という。
「私は自分の仕事に責任を持っていません」と言っていた。責任をもつのは神や仏で、自分は人間として、ただ転げまわる。そんなことを。

憧れて生きて、憧れたまま死にたいなあ、と思った。何を、って、たぶん、ついに言いあてられないだろう何か、を。

知らない土地が親しくなるのは、おろおろ歩く、という行為の分だけですね。暑くてあんまり歩けなかったけど。岩木山も見たし、あとはまた今度。



走馬灯

夏の旅の話を。さて何から。

古い手紙のなかから、茶色い布の切れ端のようなものがでてきたときに、それが、十和田湖畔のこぶしの花びらだとおもいだしたときに、十和田湖、行ってみようと思った。
でも、そんなにすぐに、とはまだ思わなかった。

友だちが、子どもと使った青春18きっぷの残りがあるから、使わないかと言ってくれた。息子が使うだろう、と思った。
ある人に、まちがってメールしたら、電話がかかってきた。ああ、この人に会いに行かなくちゃ、と思った。息子さんが亡くなった知らせを受けたのが、もう一年以上前なのだった。何年前に会って以来かしら。18きっぷの残りは私が使うことにした。

息子が、中高の友人たちと、東京やら横浜やら箱根やらの旅するらしい。修学旅行のやりなおし? 男子1ダース余りが。息子は、現地集合の日よりも前に、栃木だか茨城だか千葉だか、がたんごとん追ってうろうろしたいらしく、青春18きっぷで行くというのでついていくことにした。8月25日。始発で出発。17時間後に東京に着く。乗り換え乗り継ぎいっさい、息子のあとについていくだけなので、自分で考えなくていいのが素敵。
大井川って、大きな川なんだなあと、思ったなあ。新幹線なら一瞬で渡るけど。
私は品川で降りた。あの子がそのあとどこまで行ったかは知らない。

コロナ以来だから、東京、4年ぶり。いつも泊ってた安くていいかげんなカプセルは、電話してみたら休業中で再開の見通しは立たないらしかった。あそこでずっと暮らしてたおばあさんはどこへ行ったかしら。
いつも上京すると会ってくれた人たちが、2人も亡くなってしまって、宿までないという心細さだけど、このまま行かないと、ずっと行けなくなりそうな気がして、行く。
会ってくださった人たち、はじめましての人もなつかしい人も、ありがとうございました。楽しかったです。

ちょっと近くに行ったので、昔、暮らしてたアパートまで行ってみた。大家のおばあさんが亡くなったことは知っていたんだけど。(家は廃屋同然に見えたけど、親族がひとり暮らしているらしい。)親しくしてもらっていたお隣の家の呼び鈴鳴らしてみたら、おじさんとおばさんが、きっかり22年分年齢を重ねて、でも昔と何もかわらない感じでそこにいてくれたのが、なつかしく、うれしかったです。
「ごはん食べる?」って声かけてくれるのも。

はじまりと終わりに吹く風がそっくり、と亡くなる1年くらい前に、蝦名さんが書いてきたことの意味は、わからないんだけれど、最後に入院するときに、病院の名前教えてくれながら、少し驚いてる感じだった。行ってみたら、亡くなった病院は、通っていた大学のほんの目の前だった。

ニコライ堂、のぞいたらミサだったのかな。何語かわからない、でも、主よ、と聞こえたから日本語かもしれない、勤行をしばらく聞いた。

友人が案内してくれて、蝦名さんが住んでいたアパートも、はじめて行ってみた。それなりに、暮らし、というものがあったんだろうなと思った。あたりのごちゃごちゃした下町感のせいかもしれない。アパートの前に手押しポンプが残ってた。

 

昔、東京で暮らしていたころ、私、東京をきらいだった。不自由で苦しかった。町歩きなんて、お金がないせいもあるけど、疲れてみじめなだけだし、したいとも思わなかったけど。いま、親しい慕わしい人たちがいてくれるぶんだけは、いてくれたぶんだけは、東京好きかも。
来るたびに、少しずつ、街と和解しているかも。

そのあと、仙台に行って、青森に行って、また東京に戻ってきた夜に、また友人たちに会ったら、驚いたことに、30年も昔の、私がもう全然覚えていないようなことを、思い出させてくれる、というか、いやいや思い出せないんだけど。それでもそれは私であるらしい。
死ぬときに、記憶が解凍して、走馬灯を見るっていうのがほんとなら、私、あんなことあった? そんなことした? なんかめちゃくちゃな、わけわかんない、びっくり箱から出てきた記憶のあれこれに、いちいちびっくりして、ぎゃっ、っとか叫び声あげそうな気がするわ。

いやな記憶は、むしろきちんと思い出して決着つけて、死ぬときに思い出して苦しむようなことはないようにしよう、とか心がけますけど、忘れてることについては、どうしようもないというか、走馬灯で出てきたら、そのときびっくりするよりしょうがないのかな。ああ何が出てくるんだろ。

自分自身との和解は、どんなふうに。

仙台。東京からは新幹線。人に会う約束の時間まですこし時間あったから、巡回バスに乗ってみた。青葉城跡に行ったら、空も街も広かった。私の母方の先祖は、伊達の殿様について、仙台から宇和島に来た家臣らしいので、一度は来てみたかった街でした。