星ヶ丘ゆき

kazumiの日常雑記

鹿子たち

日曜は早朝から、町内会の集会所の掃除当番。つづいて町内の掃除。近所の人たち総出で、草刈、草引き、枝を払ったり、溝の掃除。向かいの森は、持ち主のおじいさんが死んでかれこれ30年ほどになるのだろう。以前は、たまに息子が管理に来ていたが、その息子も高齢なのだろう、もう全然姿を見ない。しょうがないので、木を切ったり枝を払ったり、私たちがするのだ。
さて、その森の前を通る度、物音がするのは、鹿がいるのである。以前はときどきだったが、最近はいつも。こちらの足音に気づくと、一応逃げるが、またすぐにいる。鹿の親子。鹿子とバンビ、と呼んでいる。鹿子と1日に2回も目があったりする。

畑を食い荒らしたのは、この鹿子とバンビだろうか。別の鹿だろうか。去年まではこんなことなかったのに、今年はなぜだろうね。

鹿子たちは、いつ来るのだろう。夜、懐中電灯をもって見に行ったら、鹿子たちはいなくて、満月があった。

f:id:kazumi_nogi:20190618025817j:plain

鹿子、で思い出した。息子が小学生のとき、顔を見ると、バカ、と言ってくる女子がいて、名前に馬がつくので、鹿子、とあだ名をつけた。25回、バカと言われたら、先生に言おうと思って、息子は連絡帳に正の字をつけはじめたが、25回にたどりつかないうちに、鹿子は先生に見とがめられて叱られた、ということがあった。
そういうことがいろいろあったので、息子のクラスメートたちの名前や顔を、私は一生懸命覚えたものだった。その鹿子に、道でばったりあったことがあって、どこへ行くの?って聞いたら、あそこの塾、って言ったのだった。中学受験するのだというから、頑張ってね、って言ったら、はい、と素直で朗らかなお返事だった。
鹿子とあだ名されていたことは夢にも知るまい。私は鹿子というあだ名だけ覚えていて、本名がわからない。
鹿子は中学受験は残念で、地元の公立中に行った。高校はどこへ行ったのだろう。鹿子に限らない、私が名前や顔を一生懸命覚えた、あの子たちは、みんな高校生になったはずだが、どうしているだろう。息子は地元中にすすまなかったので、さっぱり情報がない。親しかった子たちの連絡先さえ、彼は知らないのだ。

息子、新学期が始まって2か月たって、ようやく隣の席の女子の名前を覚えたらしい。でも、クラスの女子の半分はまだわからなくて、話しかけられても、誰に話しかけられたのか、よくわからなかったりするが、今は学校生活は平和なので、大丈夫らしい。
そうか? 
すこし努力して覚えなよ、と言ったら、いまそれどころじゃないと言われた。
考査まっただなか。覚えることが多すぎて、覚えられないことも多すぎて。




バンビの食卓

外に出ると、向かいの森ががさがさ鳴る。のぞいてみると、私の気配に逃げていく鹿の尻が見えたりする。
雨上がりの畑に行くと、枝豆が、茎だけ残してすっかり食べられていた。花も咲いてこれから楽しみだったのに。ジャガイモも花も葉もすっかり食べられていた。
そばには鹿の糞が残っていた。
今日は、桑の葉が食べられていることに気づいた。桑の葉茶にするつもりだったのに。
さらにさらに、息子の弁当用に植えていたチシャも、ラディッシュの葉っぱも食われた。植えたばかりの空心菜も。
なんなんだ、これは。私はバンビの食卓を整えているのか。
すると、畑に水を運んできてくれたパパが、雨が少ないから、山に食い物がないのかもしれん、と言う。
しれんけどっ。
耕したまま、まだ何も植えてないところは、猫のトイレになっている。そりゃふかふかで気持ちいいだろうよ。
なんかなんかもう、しょんぼりだった。
ブルーベリーの実がなっているので、これは鳥に食われないように、網をかけた。

息子は明日から考査。しばらく弁当つくんなくていいわ。

f:id:kazumi_nogi:20190613193056j:plain
チシャとラディッシュといちごとパセリは畑から。天ぷらのバラとドクダミは庭から。
花はエディブルフラワーといいます。食べれるのだ。ままごとみたいで面白い。
いいかげんな母の弁当を、毎日完食の息子に感謝。



香港のデモ。
昔、旅行雑誌のコピーを書いていたときに、ちょうど中国に返還される頃だった。これからどうなるのだろうと、不安もよぎったが、旅行雑誌のコピーはあくまで明るく、一期一会、返還前の香港に行こう! とか、返還後には、新しい時代の香港へ! とか、とにかく前向きだったのだ。夜景がどうとか、クルーズがどうとか。

共産党は、裏切るぞ。土壇場で裏切るぞ。

もう亡くなった恩人のような人が、よくそう言っていたのだとパパが言う。それが、耳のなかでリフレインしている。
佐藤優氏が、自分は徹底して反共、反革命だと書いていたことも思い出したりする。
天安門‥‥あれから30年なのか。

 

箱のなかには

実家から送ってもらった箱のなかには、いろいろへんなものが入っていた。どこかに行ったときの記念に拾ったらしい石とか土とか。でもどこのものか、もうわかんない。中学の美術でつくったオルゴール箱はすでに壊れているが、そのなかに入っているのは、死んだ友だちが小学校のときにつくってくれた、たぬき、かもしれないマスコット。それから、小学校からの通知表が一揃い。体育が極端に悪い。あとは、平凡そのもの。中学のときの模擬試験の成績表まである。国語だけ、よい。総合順位は記憶よりもずっと悪かった。高校はこの数字で決まったのだなあ。
卒業証書と賞状。賞状はふたつとも読書感想文。中3の夏なら「風と共に去りぬ」だろう。朗読させられたので、何を書いたか覚えている。高2の夏は辻邦生「背教者ユリアヌス」を読んだが、こちらはもう記憶にない。そのほかに世界史のノート、地学や地理の資料集などなど。
昔、母が何を思ってか買ってくれた桃色サンゴのかんざし。

それから昭和40年代の本だと思う。『世界の人生論』シリーズの見本の本。(本体のシリーズは、我が家の本棚にある)。このシリーズは、『日本の詩歌全集』同様、兄が東京にいた頃に揃えて、持ち帰ったものだ。そして、この1冊は見本なので、中身は真っ白。白い本なのだが、中学生の頃、私は見つけてしまった。そこに、兄が詩を書きこんでいる。
見てはいけないものを見てしまったので、隠しました。そして自分も、その白い本のなかに、こっそり何やら書きこんでいたのだが、あるとき、私は思いたって、全部消しゴムで消したらしい。消したあとがのこってる。万年筆で書いてある兄の詩は、そのまま残ってる。就職して東京に行ったころ、20歳ごろかな。
好きな人がいたらしい。貴女をおもう詩。そういう詩。
見本には、別の紙切れもはさんであって、そこには、人生の躓きと恋の終わりについて、書きつけられていた。
人生の躓きの話は、仕事をやめたことだろう。兄は高卒ながら、超有名な証券会社に就職したのだが、仕事の失敗でやめさせられた、らしかった。以前、伯父が、「わしは会社の人間が、あいつを責めるようなことを言ったときに言い返してやったよ。学校を出たばかりの人間に、博打のようなことをさせて、人生を棒にふらせるようなことをして、おまえらの会社はいったい何だ、と」そのようなことを言っていたので、そのようなことであったのかも。
私の本棚のどこかに、もしかしたらまだあるかもしれない、「夕鶴」の本には、兄あての、女性からのハガキがはさまれている。
目の前にあらわれてくる半世紀前の光景が、切ないような、いとおしいような。
何もかも夢ですね。

それで、押し入れのなかには、兄と同世代の、とても親しかったお兄さんが、大学時代のことを、書き残したようなノートの切れ端もある。うちに居候していたような時期もあったから、そのころに書いたまま、忘れていったのだろう。東京で、ブロバリンを飲んでふらふらしながら大学に行っているような姿が、垣間見える。地元の名士であるような父親との葛藤があり、反発して大学を中退したのだと、ずっとあとに話してくれたことがあった。
その手記もこっそり、私はもっている。そのお兄さんは、もう10年も前に亡くなったのだが。

あの頃、兄たちはまだ20代だったのだ。幼い、と言いたいような年齢だ。

文字。そうだな。文字を運んできたのは兄たちだった。
親たちの世代は小学校しか行かせてもらえず、祖父母の世代は学校にさえ行けなかった、そういう土地の、そういう家庭の、我が家に、文字というもの、秘密とか心とかを抱いた文字というものを運んできたのは、あの兄たちだ。


☆☆

お絵描き。

f:id:kazumi_nogi:20190607000625j:plain

 香月泰男美術館の近くに、彼がつくった 玩具の人形を大きくした彫像が何体も道沿いに立っているんだけど、それが大好きで、そのなかの花かごの人形がいちばん好きで、むしょうにそれを描きたくなったんでした。あとは適当に、なつかしいものたちを配置。SLと橋脚の下書きは息子がしてくれた。
つくづくとわかったのは、「絵になる」「絵にならない」という言い方は、実に的を得ているということだ。途中、全然、絵になりそうになかったもん。
……で、絵になったのか。わかんないけど、ここらへんが私の限界っぽい。ま、楽しかった。

現代文解釈の方法

参考書の話。
息子、高校最初の模擬試験があった。自己採点結果など聞かされたが。
数学がなんでそんなにできなかったのって話だが、少しは危機感があってほしい。どっかが雑なのだ。どっかが雑で、答えまできっちりたどりつけない……。
英語は立派。最近は、パアラランとの英語でのメールのやりとりは息子にしてもらう。
国語は、古文は意外によくできるのだが、現代文は、評論はわかるが、小説と随筆が難しい、らしい。


それで思い出したのだった。40年前の参考書のこと。
高校1年の最初に渡されて、休み明けの課題テストは、その参考書から問題が出されたから、勉強しないわけにいかなかったのだが、その参考書が、難しかったのだ。
「現代文解釈の方法」という本。
難しかったのだが、ときめいた。例文を読むだけで、どきどきした。三島由紀夫の「詩を書く少年」や和辻哲郎の「ゼエレン・キルケゴール」が載っていたのを覚えている。

実家には、もう私の持ち物はほとんど何も残っていないが、小さな段ボールのなかに、卒業証書や通知表、何冊かの教科書とノートが残っていたのを、思い出した。そのなかに「現代文解釈の方法」があった。
息子に、というより、私がまた手にとってみたくなった。それで兄に電話して、父の家の押し入れのどこかにあるその段ボールを、探して送ってもらった。

ところが、である。送ってもらったその箱のなかに、「現代文解釈の方法」だけがない。これはひょっとしたら、大事なものだからと思って、よけておいて、なくしてしまう、というパターンだったのか。
実家にないなら、持ち帰っているはずだが、家じゅうの本棚を探してもない。

ないとなると、気にかかる。一階の押し入れ。そこを探してなかったら、あきらめよう、と思って、10数年ぶりに、押し入れの奥の段ボールを引っ張り出した。ついでに、パパの古いビデオや本の処分もすることにした。その片付けが大変で。

私の物をつめこんだ段ボール5つほどの中身は、おそろしかった。
古い手紙をつめこんである箱は、さわったら日常回帰ができなくなりそうだから、さわらなかったが、その他の本やら雑誌やら、ノートやらを詰め込んだやつをひらいていったら、いろいろ出てきた。高校のころの交換日記とか、なぜか、友人たちの卒論のコピーとか。詩や小説、は私の書いたものでなく、ペンネームなんだけど、誰のペンネームであったかが思い出せないとか、で、結局、読みだして時間がかかる。そんなふうに生き難かったのかと、いまになって理解できることとか。
児童館で働いていたころかいた行事の冊子の表紙絵とか。横浜の寿町の識字学校に何回か通ったことがある、そのときに大沢先生が使っていた手作りの教材であるとか。
そして最後の最後の最後の箱から、出てきた。「現代文解釈の方法」。
感無量。

f:id:kazumi_nogi:20190605024548j:plain

押し入れ片付けるのに、かれこれ夜中までかかって、今日は腰痛だけど、本、見つかってよかった。
いろんなことを思い出す。15歳の春と夏と秋と冬。この参考書本当に難しくて、あんな田舎の、そんな進学校でもない学校で、しかも1年生に、あの先生はよくこんな本を配ったよな。あの先生の国語の授業を好きだった。担任だったが、ホームルームの時間に読書会をするような先生だった。(30年後、先生は自殺というかたちで亡くなったのだが)

ページをめくって、新しい例文を読む度に、もっと深いところ、もっと遠いところに向かって、自分が押し出されていくような感じがしたのを、今でも思い出せる。
素晴らしい1年間が、あったのだ。

3週間毎日採れた畑のいちごも終わり。今季最後のバナナといちごと桑の実のパフェ丼。

f:id:kazumi_nogi:20190605024441j:plain

 

しゅんとう

今日のおやつ。畑のいちごと近くの桑の実。桑の実たわたわ実っているが、高くて採れない。明日は、傘をもっていってゆすってみよう。

f:id:kazumi_nogi:20190526004904j:plain f:id:kazumi_nogi:20190526005252j:plain

パアラランから届いたメールを、長文だったので、息子に訳してもらっていたら(いや、彼はとっても役に立つ)
「ママ、フィリピンにもとうしゅんはあるの?」と息子が訊く。
とうしゅん? 燈春? 盗春?
「いや、しゅんとうかな」
春燈? ああわかった。イントネーションがちがう。春闘ですね。
メーデーは全世界共通と思いますが。

ちょうど、新学期に向けての話し合いで、先生たちからサラリーを2000ペソあげてほしいという要望があり(20万円ほど余分に必要、ということか)、今年度どれくらいの予算を確保できるのか、問い合わせだったのだ。ああ、つらい。
この数年、送金額は、減り続けている。20000ドルほしいが、去年は13000ドル程だった。スポンサーさんたちも精一杯だと思うのだ。
サラリーは安すぎる。先生たちの暮らしもしんどい。このままだと先生を確保できないだろう。先生のひとりは、家族のためにもっとよい月給をもらえるところに転職していった。
資金をのめどがたたなければ、ふたつある学校のひとつを閉校せざるをえないかもしれない。むずかしいところだ。電気代として、保護者からの徴収を考えているが、どうだろうか。ほかからの支援もなかなかおぼつかないのだと思う。
私たちとしては、去年と同じくらいの支援はしたい、と返事する。さしあたり新学期前に、3000ドル送れる。約束できるのはそれだけだ。
学校の修繕も必要、屋根とか天井とか、2校とも。それについてはまた今度、ということで、いやいやいや、どうしましょう。

でも、この資金難のなか、今年は、就学前の保育だけでなく、小学校高学年の子どもたちの放課後の学習の面倒を見るという。20人ほどを受け入れる予定、とか。
子どもたちの課題は次から次へとあらわれるが、対応の仕方が、本当に的確だ。
目の前の子どものために何ができるか、というシンプルなところが全然ぶれない。
そしていつもお金がない。

何はともあれ、ベストを尽くしたいと思います。
助けてくださるみなさま、ありがとうございます。

パアララン・パンタオ

パアララン・パンタオ 支援のお願い
郵便振替 : 00110-9-579521
名 称 : パヤタス・オープンメンバー

 

 

桑の実 桑の葉

桑の実を食べたら、口のなかが紫色になるから、食べたことがすぐにばれた。
という話を、昔々、母から聞いたことはあった。母の実家は農家で、その昔は蚕も飼っていたらしかった。祖母(私が小さい頃に亡くなったので、この祖母の記憶はない)が家で飼っていた蚕から糸を紡いで、自分で織ったのだという風呂敷くらいの大きさの紫色の布が、昔、うちにあったが(たぶん、祖母の形見のように母がもっていたのだが)母が死んだあと、消えてしまった。父が引っ越しのときに捨てたのだろう、と思う。

母にとってなつかしく、私は見たこともない、だから、見てもそれとはわからない、桑の木だった。桑の実は、幻の世界の木の実のように思っていたが。

畑に、低い木があって、その横を通るときに邪魔なので、毎年枝を払っていたのだが、その木に、実がついているのを見つけた。オレンジの小さいのがふたつ。
え。これはもしかしたら桑の実なのか。もしかしたら桑の木なのか。

f:id:kazumi_nogi:20190522213507j:plainf:id:kazumi_nogi:20190522214249j:plain

そうして、同じ日、向かいの森の木を、何げなく見上げたら、いろんな色の実がたわたわなっている。桑の木、ここにあったのか。すみっこすぎて木が高すぎて、全然気づかなかった。
桑の実、色の黒い、甘くなったやつを摘んで帰る。森の住人は30年ほども前に亡くなっているし、誰も採る気配はないので、私が採ります。
向かいの森の桑の葉と、畑の桑の葉と、かたちがちがうのが気になって調べたら、若い木の葉っぱは割れているが、古い木は楕円形の葉になる、らしい。
葉っぱも摘む。

畑のいちごも、そろそろ季節は終わりで、今日は20個。
いちごケーキつくった。桑の実のせた。庭のバラも咲いたのでついでに飾った。ついでに食べた。

f:id:kazumi_nogi:20190522214211j:plain

桑の葉はお茶にした。癖がなくて、飲みやすい。
柿の葉とヨモギドクダミブレンドしたお茶も美味。

バラの花は、天ぷらがおいしい。つぼみの塩漬けもよい。

 

可愛いと可哀そうは双子

松村由利子さんの歌集『光のアラベスク』を読んでいたら、


 パレアナもアンも健気な前世紀 天涯孤独という明るさに

 いつだって少女は孤児に憧れる可愛いと可哀そうは双子


という歌があって、なつかしい気持ちがした。松村さんの歌集は、本のいろんなところに、本好きな女の子の気配があって、それらの歌の傍らには、子どもの私もいるような感じがして、親しみがわく。パレアナやアンを通してみるとき、天涯孤独は、たしかに明るく見えたのだった。あの明るさは何だったろう。

家族がいても、子どもは孤独なわけだし、パレアナやアンの本がくれたのは、その孤独をまっすぐ肯定してもらえるうれしさだったかもしれない。

放課後の小学校の校舎の裏で、草を編みながら、私はパレアナのように生きられるかしらと、考えていたことを思い出す。

少女たちの、孤児への憧れとは、また別の話だが、
可愛いと可哀そうが、同じだったのは、田舎の祖母たちの言葉だった。
おばあさんたちが、「あの人もかわいらしや」などと言うとき、「かわいらしい」という言葉は、可哀そう、の意味をのせていた。背後には、人生のそれぞれの不幸があって、そこをなんとか耐えて生きているいじらしさへの共感のようなものが、「かわいらしや」なのだった。可愛いと可哀そうはたしかに双子だった。

祖母は、朝ドラで「おしん」が放映されていたころ、おしんを見ながら涙を流し、「わしも同じやった。5歳でお父さんに死なれて、6歳で奉公に出た」と言っていた。読み書きはカタカナだけが、少しできた。祖母はもちろん、私が生まれたときからお婆さんで、戦争で焼けたのだろう、若い頃の写真も何にもないので、祖母の子ども時代や娘時代を、私は思い浮かべることもできないが。
テレビのおしんに向かって「かわいらしや」というとき、祖母は自分自身の子ども時代、娘時代に向けて、「かわいらしや」と言っていたのかもしれなかった。
祖母が、だれかれの可哀そうについて、「可哀そう」ではなく、「かわいらしい」と言うとき、私はいつもすこし、救われる気持ちがした。
「かわいらしい」のもつ自愛と慈愛の響きに、ほっとするというか、その響きなしに、可哀そうを直視するのはきつい、というか。

もしかしたら、可哀そうな人を、不幸や陰惨の側に落ちてゆかせないための、祈りのような言葉が「かわいらしや」であったかもしれない、と。