月を追う途中の

なんて久しぶり。ブログひらくの。何があったわけでもなく、何もなかったわけでもないのですが。
パアラランの写真展終わり(3月にまた隣町の別の公民館でやる予定)、国際協力バザーも出店できた。パアラランにクリスマスの送金もできた。友人のみなさまには大変にありがとうございます。クリスマス・パーティのご報告はまた。

今年も終わりますね。こないだ雪が降って、靴に穴が開いていることがわかった。私いま、息子の履けなくなった靴をひとつずつ履きつぶしているんですけど、穴が開いていることに気づくのは、必ず冬の雨か雪の夜だったなあと、思い出したり。
夏に足が濡れてもつらくないから、やり過ごすんだけど、冬は痛くて冷たくて泣けるから、やり過ごせなくて、靴を買うのはいつも冬の日だった。
次の靴を履こう。

そんなに何もかも覚えているわけではないのだけれど、それなりに記録していることを、読み返せば、ついさっきまでそこにいたみたいに、思い出せる。子どもがまだ小さかった頃のこととか、ほんとにありありと。2歳か3歳くらいの子が目の前に浮かんで楽しいんだけど。
二十歳になった息子からは、試験不合格だったーとか、再試がいくつ、みたいな楽しくない話が届いて、むかむかしてくるのであった。
(この心配のむかむかは、私がまさに、二十歳のころに、生活も学業もどちらもどうにもままならなくなってしまったことが、フラッシュバックされてしまうせいでもあるんだけれども。ほんのすこしの知恵とか知識とか工夫とか、それで避けられる苦しみを避けられなかった悔しみとかとか。)
離れていて、目の前にいないからね。私のなかには、かわいいほうの坊やも、かわいくないほうの坊やも、同時に存在しているのが、不思議な感じだ。
それにしても、あのかわいい子はどこへ行ったのだ、私のかわいい坊やを返してくれないかな。
かわいくないほうの坊やは、年末ぎりぎり帰ってくるんだろう。

振り返りましたら、この1年、蝦名泰洋さんの歌集が出せたことが、まずよかった。もうそれだけでじゅうぶんです、私。歌人の仕事としてじゅうぶん。

短歌研究年鑑の「2023歌集歌書展望」に、林和清さんが「ニューヨークの唇」とりあげてくださっていた。
「なんという寂しい心を持った人なのだろう。そしてまちがいなく優しい心を持つ人なのだ。無国籍風の物語的な歌だと思われるが、彼の歌にはそれを超えた根源的なものがある。孤独を知り尽くしたものだけが、孤独を通じて届けられる明るみを読者は手にするだろう」

昔、蝦名さんと親交のあった、詩人の別所真紀子さんから、お手紙いただいた。「潔癖な勁い魂を持った方でした。惜しまれます」
うれしく、ありがたく。そうでした。あの人は勁かったのでした。さびしさとなつかしさと。
本、読まれてほしいと思います。読まれるでしょう。月を追う途中の私たちに。