二十歳

11月1日 all saint day 万聖節万聖節の日だから、あなたの息子の誕生日は覚えてる、ってレティ先生が言ってたな。レティ先生のお墓まいりに行きたいな。

10月30日から11月12日までの2週間、隣町の市民センターで、パヤタスのゴミ山とパアラランの写真展示やることになって、準備していた。
写真はもう、以前に使ったものの使いまわしなんだけれども、昔の写真見てたら、なんかいろいろ思い出して胸が痛い。

これは1999年の写真。真ん中の女の子の名前はジェナリン。11歳。その前の年まではパアラランに通っていた。でも10歳くらいになると働き手なので、親に理解がないと学校に通わせてもらえなくなる。
出生証明のない子も多かった。いま、ほとんどすべての子が出生証明があって、小学校に通えているのは、夢のようなんだけれど。

適当な展示なんだけど、展示した写真眺めていたら、いつかお金できたら、写真集つくりたいかな、と思った。ゴミ山も閉鎖されて、記録も記憶も消えてしまう。忘れるはずないと思っていたのに、忘れてるもの、子どもたちの名前も。

自分の息子のことも、忘れてるもんね。昔の記録見たら思い出すけど、でも別の子の物語のような感じがしてくる。そしてたぶん、私が記憶しているあの子の物語と、あの子が記憶しているあの子の物語は、たぶんちがうのだ。

すこし前に、「ぼくは対人恐怖症かもしれない。精神科に行ったほうがいいだろうか」などと言うから、え、まだそんなことで悩んでんの? と思ったけど、いやいや、そういうことで悩むような年頃なんだわ、青春だわ、自分探しの地獄だわ。

今日、彼は二十歳のお誕生日。何かほしいものあるって聞いたら、別にないって。午後、休講なので、乗りたかった電車に乗って、温泉行くんだって。良き。

ところで、子どもが大人になったとき、親ってどういうふうに存在するもんなんだろうか?

18のときに母が死んでいるし、そのあとは私のなかでは父もいない感じ、もう親はいないものと思って生きてたし。二十歳の私から見たとき、母はもう存在しなかったのだけれど、二十歳の息子からは、まだ生きている父と母が見えているわけで、ああ、何が見えているんだろうなあ。まあ、あんまりこっち向かないよな。