カムパネルラ忌

 11月は、灰色の空と、紅葉の木々。11月はときおり空気が冷たく、季節が、終わりへ向けてひた走る。
 11月はどういうわけか、好きな人たちの誕生日と命日がひしめいていて、そのせいなのか、11月の空気は、生まれる前や死んだ後につながっているような気がする。子どもが生まれるときも、早産しかかったにも関わらず、生まれるのは11月だと確信していて、1日の午前0時に陣痛がはじまった。
 1日に子どもが生まれて、31日に、近くを走っていたローカル線が廃止になった。畳に寝転んで、日がなおもちゃの機関車を走らせている子をみていると、山と河の美しい景色のなかを走っていたあの電車に、きみを乗せてあげられないのが、つくづく残念だ。
 
 ずっと前に読んだ詩のことを思い出し、昔その詩人(伊丹イタリアというペンネームの)にもらった薄い詩集を、探した。タイトルももう忘れていたけれど、最後の一連だけ思い出して、それからとても気になって。
 
       カムパネルラ忌       伊丹イタリア
 
王国を見にいくと言い残して
もどらない彼のことを
パンを食べているとき忘れていた
食べるときは忘れているのだ
たえまなく浸食される時間の痛みの中で
わたしも一筋の傷口である
黒パンには塩分が含まれており
沁みる
王国はどうだったの?
と、もどって来たら訊いてみよう
 
  だれもいなかったよ
  王もいない
  どの部屋も空っぽ
  ただ玉座に
  四季の収穫だけが飾られていた
 
黒パンには
両眼から落下する石と同じ成分が含まれており
噛むと顎がふるえるのをとめられない
海の方角にあるはずの
だれもいない国を想い描いた
 
旅路で
もし死んでいなければ
彼は
カムパネルラと同じ年だ
いいえ
もし生まれていたらの話だ
そうしたことも
食べるときは忘れている
 
もう一度
始発から数えてみよう
わたしがいることと
彼がいないことの闇をつないでいる
駅の数を