ロシアの詩人、アンナ・アフマートヴァの詩集『レクイエム』(木下晴世編訳 群像社)が刊行された。
手にすることができて、本当にうれしい。
手にしたら、指先から涙に変わってしまいそうな、可憐な詩集。
最初にアンナ・アフマートヴァ(1889-1966)のことを知ったのは、いつだったろう。ペレストロイカの頃だったか、もうすこし、あとだったか。
スターリン時代に、囚われた息子や夫のために、獄へと通う女たちのなかに彼女がいたこと(彼女の息子が囚われていた)、そして、ともにそこにいた女たちのことを詩を書いたことが、何かで紹介されていたのだったと思う。
そのような詩人として、アンナ・アフマートヴァの名前を記憶した。
最初に読んだのは群像社の『アフマートヴァ詩集』だった。10年くらい前かな。本は2003年の刊行。
人は思っていた
貧しくて 私たちには何一つないと
けれどひとつまたひとつと失ってゆき
毎日が追悼の日になると
歌がつくられはじめた
神の大いなる恵み深さと
私たちのかつての豊かさをうたう歌が
最初のページのこの詩を読んで、すっかり好きになったし、信じた。この感触はかけがえがない。信じられる詩に出会えることは、しあわせだ。この本に収められていたのは、1917年のロシア革命前後の詩。血まみれの時代の気配もあるんだけれど、何より、言葉の美しさに戦慄した記憶がある。悲しみの果てしなさ。
最近になって、アフマートヴァの他の詩集『おおばこ』『ロザリオ』を読むことができて、次第に印象が明瞭になってきた。
なんだろう、心と言葉のぴったり重なった感じ。意味を考えるより先に、心に濡れたガーゼがぴったりくっつくように、言葉が心にあてがわれる、そんな感じがした。
心が、彼女の詩になついてゆく。
それから、私は最初の記憶のなかのアンナ・アフマートヴァの姿を詩集『レクイエム』のなかに見つけた。なんだか、ずっと昔から知っていた人の気がした。
『レクイエム』は、獄の前に、ともに並んだ人々への思いをつづった詩編だ。
その詩編は、長い間、発表することはできなかったし、驚いたことに、書かれることもなかったのだという。解説には、チェコフスカヤの覚書が引かれている。アフマートヴァの詩は、書かれることなく、あるいは書かれてもすぐに燃やされ、詩は親しい人たちにささやき声で伝えられ、友人たちの頭のなかに記憶されて、保存されていたのだ。
傷口にガーゼをあてずにいられないように、心には詩がいるのだと、アフマートヴァを読んでいると、よくわかる。そんなふうに詩は求められる。無傷な魂などないから。アフマートヴァの詩のガーゼは濡れている。血によって、涙によって。でも決して汚れない。
詩は深くやさしい。そして言葉が、こんなに美しくいられることが、そのまま救いのようだ。
エピローグ Ⅰ
私は知った どのようにして人々の顔が痩せこけ
どのようにまぶたの下から恐怖が顔をのぞかせ
どのように楔形文字の過酷な頁を
苦しみが頬の上に刻みだすかを
どのように灰色まじりの黒髪が
みるまに銀髪と化すかを
ほほ笑みが従順な唇の上で枯れしぼみ
ひからびたくすくす笑いの中で恐怖がわななくかを
私が祈るのは私ひとりのためではない
私とともにあそこで立ち尽くしたすべての人のため
酷寒のときも七月の炎暑にも
盲目の紅き壁の下で