母のつづき

母が52歳で死んだので、人生はそれくらいの長さなのだろうと、思っていた。わりと強く、そう思っていたようだ。それでも途方もなく、十分すぎるほど長く思えていた。18歳の頃は。人生が50年もあるなんて。

人生は終わったのに、なぜまだ生きているのかよくわからない、という感覚に襲われていたのは、30歳の頃で、世の中も、人の気持ちも、私にはわからない動き方をするようだと、謎のなかをさまよい疲れて、ようやく謎が謎でなくなったときに、理解したのが、恐怖や憎悪や嫉妬や殺意がどんなものかとか、暴力が伝染することへの絶望感であるとか、そういうことだったので、つまんない謎解きだった、あれは私の敗戦だった。
それでもまだ、あと20年くらいは生きるのだろうかと思ったときに、その20年がとても長く思えたのを覚えている。


ある朝、思いがけず、こころよい目覚めがあった。フィリピンのごみの山で、ふもとのフリースクールに泊まった翌朝、レティ先生に起こされたとき、こんなに安心して眠ったのは、どれくらいぶりかしらと思った。それが母の棺の横で眠ったときの感覚と似ていて、葬儀の朝の秋の日差しを思い出した。
そのとき、レティ先生が52歳だったということはあとで気づいたのだけれど、52歳から先にも、人生は続くのだということ、それはとてもいいものかもしれない、ということを、私はレティ先生を通して理解した。母のつづきがあるのだ。
敬愛できる人に出会えたことがしあわせだった。人生が生きるに値するものになる。

自分が母親になると、夢にも思ったことがなかったが、子どもが生まれたので、もしかしたら、もうすこし長く生きることになるかもしれないと思った。18歳で母に死なれた私より、17歳で母に死なれた弟のほうが、はるかに、くらべものにならないくらい、その痛手は大きかった、と思う。
息子の痛手が少なくなってから死にたい、と思った。

で、気がつくと、私は母の死んだ歳をとっくに超えてしまったし、超えたぶんは、なんか、おまけのようで、いつ取り上げられても文句はないんだけど、レティ先生が70代の後半になって、車椅子になっても、たんたんと学校をつづけているのを見ると、
私もたんたんと生き続けていていいのだろうなと思う。

誕生日が来る度、おまけの歳月が増えているのが、不思議でぜいたくで仕方がない。


最近、90歳前後の方たちから、被爆体験の聞き書きをするということを何度かしていて、もし生きていたら、母もこのくらいの年齢だったのかと思い、もし戦時中に、15歳くらいだった母が、友達に広島に働きに行こうと誘われたときに行っていたら、被爆体験のどれかは母のものであったかもしれず、私が子どもだったときに、母親世代だった人たちなので、お婆さんたちの何げない仕草や、昔のこぼれ話に、ふとなつかしさや親しみを感じたりする。

母が52歳よりも長く生きられたかというと、それはやっぱり無理だったろうと思うのだけれど、もしかしたら、私は生きてしまうかもしれない。すでに何年も余分に生きたし、もしかしたら意外に長く生きることもありうるかもしれない、と目の前の90歳の人を見ながら、思ったのだった。

だとしたら、おまけ、たくさんすぎる。

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大塚国際美術館。中世の聖堂を模したあたりが、すごくよかった。