お絵描きの秋

秋の油絵教室。5回目最終日。毎年へんなもん描いているけど、色に触れるのが楽しい。高校の芸術で美術を選べなかった残念さを解消。

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今日で終わりなので、つきあってもらったリンゴ、もらって帰る。

息子は今日から修学旅行。早朝、電車に乗っていった。修学旅行、というか、イングリッシュキャンプとかで、3泊4日の研修。収容所、とかハリー・ポッター屋敷とか言っていたけど。福島のどっかにそういう施設があるらしい。最終日、東京で3時間だけ自由時間があって、オタク男子たちは秋葉原に行くらしい。
息子はでかい時刻表をリュックに入れた。
彼のバイブルですね。

旅慣れた顔で出かけていったよ。

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お絵描きもう一枚。1994年パヤタスで撮ったピンボケ写真から。

 

黙市

もらった柿を食べ終えた頃、ある日、外に出ると、玄関先のバケツのなかに、また柿がひとふくろ置いてある。数日後には、キウイがひとふくろ、置いてある。「ごん、おまえだったのか」と言いながら食べているが、たぶん、まちがいなく、お隣からの差し入れだと思う。

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こういうとき、たちまちお家の呼び鈴を鳴らして、お礼を言いに行く、ということをしないとマズイ、人たちもいるが、無駄に呼び鈴を鳴らさないでほしい、人もいて、私もお隣さんもそっちなので、畑で見かけたらお礼を言おうと思っているけど、まだ見かけないので、言ってない。
ほとんどおしゃべりしないのに、互いに、何か似たところを嗅ぎ当てていて、微妙に通じ合うところもある感じ。
会話はたぶん、「食べて」の3音があれば多いほうで、無言でうなずく、とかそんな感じ。

黙市(だんまりいち)という言葉を思い出す。津島祐子の小説のタイトルだった。...
向かいの森の紅葉がきれい。

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街歩き

 

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日頃なかなか街なかには降りないのだけど、木、金と2日続けて降りて、友達に会った。友達に会えると、それだけで、よい一日だったなと思う。
みなそれぞれに忙しい人生のなかで、つかのまでも、一緒の時間を過ごせるというのは、うれしいことだなと、思うようになった。

降りたついで、
私ははじめて、観光スポットを巡回するバスがあることを知ったよ。で、平和公園前からバスに乗って、現代美術館へ。「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展。
いや、凄かった。原爆の図は、いくつか、いままでも見たことはあるんだけど、こんなに一度にたくさん見たのははじめて。めまいがするほど圧倒的。
原爆の図のオリジナル版と、再制作版が並べてあって、
どちらも怖ろしいんだけど、並べて気づいたのは、オリジナル版の美しさだった。
ただおどろおどろしい光景があるというだけではなくて、美しいものが傷ついたのだ、ということが伝わってくる。絵のなかに時間が流れていて、痛みがある。

これはすごいなあ。
見ることができてよかった。俊の若い頃の油絵にも親しみを感じた。

別の展示室では、この子を見てしまった。一度見たら忘れられない顔だよね。岡本太郎くん。
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きれいな秋の日で、森のなかを、どんぐり踏みながら歩いた。





 

 

 

ワラン・イワナン

いつもあとから気づく。もっとお礼が言えればよかった。
というのも私は今日、筋肉痛でふらふら。ということは、昨日の国際フェスタで、私と一緒にバザーを手伝ってくれた人たちは、私よりずっと年上な分だけ、もっと疲れただろうなあ、
ということに今日気づく。あと100倍くらいは感謝してもらわないと、疲れは癒されないのではないだろうか。私は100分の1しか言えなかった気がする。
で、なぜ疲れているかというと、
売れなかったからです。

例年の3割~4割くらいかなあ。とにかく人が通らない。「今年は少ないなあ」と警備のおじさんも言っていた、らしい。「毎年同じだから、ここは通らなくていいわあ」と話ながら別のところに行く人もいた、らしい。
たしかにね、毎年、同じものを売ってますけどね。フィリピンのリサイクル・バッグ、評判はよかったのです。でも、私もう3つもってるから、みたいなお客さんもいて、つまり、店出しの関係者同士がぐるぐる回遊魚のようにバザーエリアを巡っていたりする……。
フィリピン関係では同様の商品を扱うところもでてきて、めずらしくもないというか、安さと実用の便利さと品揃えでは負けてないつもりなんですけど。

そんなに儲けは期待していないけれど、赤字になったら、パアラランの寄付にまわせないし、本末転倒なのでやめる、とは思っていて、
でもリサイクル・バッグは、パヤタスのお母さんたちのソーシャル・ビジネスの立ち上げを励ましたい気持ちもあるので、買いたいし、
オーガニック・コーヒーは高いけれど、よい商品だし、これもソーシャル・ビジネスからたちあがったブランドで、パアラランの卒業生の勤め先でもあるので、これも売りたいし、
昨日のバザーは、地元のボランティアグループさんの、ほとんど唯一の活動となっていて、これまでも長く支えてもらってきているし、これからも、つづけていきたいし。
今後の工夫を考えたいと思います。

で、ちょっとはらはらしながら、計算してみたら。
この夏の、コーヒーとドライマンゴーとリサイクル・バッグの仕入れ値と売り上げですが、まだたくさん商品を残しながらも、赤字になってない。少しだけど、黒字なのでその分、パアラランの寄付にまわせます。
昨日はそれでも、20人ほどのお客さんが買ってくださったし、
設定価格より高く買ってくださった友人のみなさんも、本当にありがとう。

本の紹介。

フィリピンのスラムの蘇生と、ソーシャル・ビジネスの物語。「ワラン・イワナン」(だれも置き去りにしない)精神と貧しい人々の「天才」がコミュニティーを変化させる物語。

www.amazon.co.jp

 

黄色い本

高野文子の「黄色い本」というタイトルの漫画は、田舎の高校生の女の子が、『チボー家の人々』という小説を、夢中で読みふける、という物語だ。
チボー家の人々白水社の全5冊の黄色い本は、私も15歳の夏に夢中で読んだ。夢中で読んだのだが、何年もたつと、夢中で読んだことだけ覚えていて、内容はあやふやになっている。大学生の頃、古本屋で見つけて、いつかもう一度読み返そうと思って買った。
そのまま読まずにいたのだが、そろそろ読まないと、読めなくなる、と気づいた。小さい文字を追うのが、そろそろつらいのだった。で、読み始めると、これが、なんかもう、いいようのないなつかしさで、細部は忘れているのに、空気感は覚えている。できるだけゆっくり、ゆっくり、読んでいる。いま、アントワーヌが、家出して施設に入れられた弟のジャックを、救い出そうと画策しているところ。
15歳の夏、レゾンデートル、という言葉を私はこの本で知った。どきどきするほどすてきな言葉だと思ったけど、かなしいかな、もう魔法は消えているのだ。
で、いまは黄色い本を、いつもカバンのなかにつっこんでいる。


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今年で3年目なんだけど、この11月も、近くの高校の教室に油絵を習いに行ってる。週に一度、5回のコース。気ままに、なんかへんな絵をかくのは楽しい。他の人たちのを見るのも楽しい。去年いたおじいさんが今年はいない。おばあさんたちが「来年も来れるかしら。来れるといいわね」とおしゃべりしている。
木箱の上に、黄色い本をのっけてみた。

数日前、パパの誕生日だったので、ケーキつくった。炊飯器と息子がつくった。「いちごの組体操」と言いながら、飾っていた。「ほんとにつらかったよ、小学校の時の組体操」。思い出すと私もしんどくなる。ケーキの写真貼っとく。

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ところで、合唱祭の連弾用に作っていた息子の楽譜は、夢と消えた。
最初、背中ちゃんが低音部、息子が高音部、という話だったので、「高音部を華麗に編曲した」のだが、結局息子が低音部とペダル担当になり、背中ちゃんが高音部になり、すると背中ちゃんは、息子の楽譜は弾けないので、自分で考える、ということになった。でもいい感じですすんでいるらしい。ピアノは。

合唱はもう、最悪。出場しないほうがいい、と息子は言っている。音程が違う、リズムが違う、声が出てない、おしゃべりばかりしている、もうぐだぐだ。去年もそう言っていたよ、と言うと、去年のほうがまだまし、だそうで、音の汚さが腹立たしくて、いらいらしてくる。机を蹴ってみたが、何も変化がない、ので、ピアノの音に集中することした、と。

聴覚過敏のもうひとり、ぎりぎりちゃんは、ずっと保健室登校だったのが、最近、美術の時間だけは、教室に戻ってくるようになった。ぎりぎりちゃんが戻ってくるんだから、うるさくするんじゃないぞ、と指名で注意されたひとりは、洪水ちゃんだが、「えー、わたしたち、アニメの声でおしゃべりするんですけどー」と返事していたらしい。
その洪水ちゃんに、今日、息子は、給食のレトルトカレーのカレーを服にかけられて帰ってきた。
カレーの袋を開けるときに、飛び散ったんだけど、男子たちが、誰かやるんじゃないかと言っていたら、洪水ちゃんがやったのだった。
袋を開けるのは難しいのだ。ママは小学校や中学校のとき、給食のマーガリンやジャムの袋がうまく開けられないで、あっちこっち飛ばしていたよ、という話をしていたが、洪水ちゃんにカレーをかけられた息子、
「ママと同じだから、しょうがない」と思ったそうだ。

洗濯。

楽譜をつくる

12月の合唱祭に向けて、準備がはじまっている……のかいないのか。
1年生と2年生、3年生と4年生が一緒で、それぞれ1組団~4組団までできる。息子、上級生の4年生がピアノと指揮をするだろうから、今年はピアノは弾かないだろうと思っていたのが、4年生がピアノを弾かないので、3年生に降りてきた。

するとクラスに、ピアノを弾きたい(または歌いたくない)子が3人いた。息子と女子ふたり。ひとりの女の子は、背中ちゃん、と呼ぶことにする。1年生からずっと同じクラスで出席番号が必ず息子のすぐ後ろで、ついでに成績も同じくらいなので、もしかしたら6年間、ずっと背中にくっついていそうな気配の女の子がいるんだけど、彼女が、弾きたい弾きたいというので、じゃあもし弾くときは、連弾しよう、という話になっていた。
ところがもうひとり、弾きたい女の子がいて、すると背中ちゃんともうひとりは、互いにゆずりあって、なぜか背中ちゃんが降りることになった。ところが次の日には、もうひとりの子がやっぱり降りるとなって、息子ひとりでやることになったが、それを知った背中ちゃんが、やっぱりやりたいと戻ってきた。
さて、曲が決まったが、その伴奏は思いのほかに簡単なもので、息子でも背中ちゃんでも、ひとりで楽々弾けるし、連弾用の楽譜があるわけでもないのだった。

どうするの?ときいたら、ぼくが編曲する、とこともなげに息子は言った。どうやら、リストが、シューベルトの歌曲を編曲したような、華麗な編曲を、やってみたいらしかった。
お手並み拝見、と思っていたが。

で。息子の頭のなかではいろいろ華麗に鳴り響いているのかもしれないが。
背中ちゃんとの意思疎通はできていない。
背中ちゃんに何を弾いてもらうのか、自分は何を弾くのか、楽譜にしてあげないと、伝わらないでしょう、と思うんだが。
楽譜をつくるというあたりで、茫然と立ち止まって、作業的に進められないでいるのだった。とうとう見かねて、楽譜と五線譜の用紙をコピーして、切り貼りできるものは切り貼りする、できないところは書きこむ、と指示して、ようやく取りかかった。

なんか、難しいことをしている。ふたりなので、旋律も弾けるのだが、そんな簡単なことはつまんない、と言う。リストの方法に習って、右手で装飾音符、左手で和音、右手の一部と左手の一部で、旋律も弾ける、というふうにしたいらしい。
そうすると音の厚みが出るからって、合唱でかき消されると思うよ?
楽譜つくるのが、面倒臭くてたまらないと言いながら、
この週末、切ったり貼ったり、書き込んだり、していたが。
肝心の間奏部分がまだ、できていないらしいけど。
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息子たちの団は、まだ指揮者も決まっていないというし、まだまだやる気の感じられない合唱祭の練習の見えない片隅で、
何ごとかが、はじまってはいる。もしかしたらどこかで、すっかりぽしゃってしまう予感もするので、そうならないといいんだけど、ひとまず、ここらでメモしておく。

いや、どうなるんだろうなあ。