ミモザ


 庭のミモザが咲いた。といっても、細い痩せた木の先に、数えれば数えられるほどの、ほんのわずかの、小さなけぶるような花をひらいてくれた、というだけなのだけれど、例年、秋頃に虫の食卓になってしまうのが常だったから、生きのびて、わずかでも咲いてくれたのが、うれしい。

   はじめてミモザを見たのは、大学に入学した年の春。平和大通りに大きなミモザの木があって、頭上で、あわ立つような黄色い花をゆらせていた。これがミモザというのか、なんてきれいな花だろう、と思った。めぐりくる春ごとに、そのミモザを見ていた、と思うのだが、記憶のなかで、花はなぜか夜のなかでゆれている。
 たぶん、あの頃、昼間は、たまに大学に行くほかは下宿で寝ていて、夕方アルバイトに行って、その後友人と遊んで、深夜から早朝に下宿に帰る、という生活をしていたからだろう。アルバイト先に自転車を漕いでいく、その道の途中にミモザがあった。
 記憶のミモザは、夜のなかでゆれている。闇のなかにぼんやり、たよりないような、それでもあたたかいような、にじんだ灯りのようにある。

 須賀敦子の『遠い朝の本たち』という本のなかに、ミモザの出てくるとても印象的な話がある。彼女の女学生の頃の話だが、ああ、そんなことは自分にもあった、という気がして、忘れがたい。

 「小さな丸いテーブルのうえのコップにさしたミモザの、むっとするような匂いが、明かりを消した部屋の空気を濃くしていた。
 春だな。それが、最初に私のあたまにうかんだことばだった。そして、そんなことに気づいた自分に私はびっくりしていた。皮膚が受けとめたミモザの匂いや空気の暖かさから、自分は春という言葉を探りあてた。こういうことは、これまでになかった。もしかしたら、こんなふうにして大人になっていくのかもしれない。(略)
 だが、その直後にあたまをよぎったもうひとつの考えは、もっと衝撃的だった。それは、「きっと、この夜のことをいつまでも思い出すだろう」というもので、まったく予期しないまま、いきなり私のなかに一連のことばとして生まれ、洋間の暗い空気のなかを生命のあるもののように駆けぬけた。(略) たしかに自分はふたりいる。そう思った。見ている自分と、それを思い出す自分と。」
   須賀敦子『遠い朝の本たち』筑摩書房