あはれ花びらながれ


  甃のうへ   三好達治

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
廂々(ひさしひさし)に
風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

 たぶん、「あはれ花びらながれ」の一行に、とりつかれてしまったのだと思う。14歳の頃、何げなくめくっていた日本の詩歌全集の一冊にこの詩を見つけて、何が書いてあるのかよくわからなかったのに、まして覚えるつもりなんてなかったのに、気がつくとすっかり暗唱していて、今でもそらで言える。
 詩の情景を理解するようになったのは、もっとずっとのちのことだ。14歳の頃にはちんぷんかんぷん。「をみなご」はたぶん女の子のことだけど、どんな女の子なのだろう。「しめやかに語らひあゆみ」はどんなことを語って、どんなふうに歩けば「しめやかに」ということになるのだろう。「をりふしに瞳をあげる」はどんな間のとりかたで瞳をあげるのだろう。女の子が歩いていって、でもそれがどうしたというのだろう。廂、風鐸がどんなものかもイメージできない。
 それでも、「わが身の影をあゆまする」という言葉は、何かしら痛い言葉のように思えた。自分の体をあゆませるより、影をあゆませることのほうが、ずっと痛くてつらいことのような気がした。実際には、影と体は一緒に運ばれるわけだけれど、でも。

 いまも桜散るのを見ると、「あはれ花びらながれ」と浮かんできて、それから一息に「わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ」まで、ぶつぶつ口ずさんでしまっていたりする。

 夕方、近くの運動公園に桜を見に行った。曇り空の下、満開の桜だった。