あめがふります


 2歳半になる子どもがときどき童謡の絵本をめくっている。うろおぼえの歌を、あやしげな発音とあやしげな音程で歌っていたりする。
 とすると、あのとき私もこれくらいの年齢だったのだろうか。

 最初の家にいた頃だから、5歳になる前の記憶だ。童謡の絵本が1冊あって、北原白秋の「雨」が載っていた。「あめがふります。あめがふる。あそびにゆきたし。かさはなし。」
 中庭の奥にある掘っ立て小屋。陽のささない家なので、昼間は、ベニヤ板の戸口はたいてい開けっ放しだった。雨の日もよほどひどくなければ戸は開けたままで、その日も私は、開いた戸口にすわっていた。
 中庭の木や草が雨にぬれるのをぼんやり見ていたとき、突然、「雨が降ります」の童謡の意味を私は理解した。それまでもレコードを聞いたり歌ったりしていて、でも何の歌とも思わずにいたのが、そのときふいに、「あめがふります。あめがふる。あそびにゆきたし。かさはなし。」という歌は、いまの私のことを歌っているんだと気づいたのだった。
 もちろん「べにおのかっこ」「おがきれた」など、わからない言葉はたくさんあったけれど、わかる言葉とわからない言葉が区別できることも、おどろきだった。
 雨にぬれた緑がきれいで、きっと今頃の季節だった。かさはなし、どころか、靴もない、と思ったのをおぼえている。入り口の石の上に、いつもはいている私の靴がなかった。

 ふやふやとかたちのさだまらないままに、頭のどこかをただよっていた「ことば」というものに、のばした手に落ちてくる雨粒みたいな、たしかな手触りがあるという発見。
 「ことば」は雨にぬれた草の緑みたいに、明るくくっきりしていた。