合歓の花


 向かいの森に合歓の花が咲いている。2階の窓から、桜の木の向こうにちいさく見える。
 はじめて合歓の花が咲いているのを見たのは、いつだったろう。渓谷の、雨に濡れた緑のなかに、けぶるような桃色の花がきれいだった。あれはどこだったろう。車の窓から見た。だれに連れていったもらったのだろう。

 思えば、すでにたくさんの記憶を失っている。先生の名前、友だちの名前、行った場所、してきたこと。いろんなことが、思い出せない。
 10代の終わり頃からの記憶は、とりわけ茫漠としている。自分をもてあましていて、存在するということがすでに忌まわしくて、自分を憎むよりほかに、正しさというものがあろうとも思えなかった。きっと、思い出して楽しいことでもないのだ。あの日々の私も、私につながっていたさまざまのことも。そして人の名前を思い出せないと気づく度、つくづく恩知らずの自分であるだろうと、すこしはつらく思うけれども。
 そういう日々のある日に、見たのだきっと。その周辺の記憶はすっかり消えているのに、あの渓谷の(どこの渓谷なのだろう) 細い雨にけぶる合歓の花だけ、いまも脳裡にあざやかだ。