どこから来てどこへ

 10月5日は、グレースの誕生日。生まれてまもなくゴミの山に捨てられた女の子が拾われたのが18年前の10月5日だった。はじめて会ったとき彼女は5歳だった。それがもう18歳。高校生だ。しばらく会っていないせいでもあるが、歳月のはやさに呆然とする。
 とすると、私の子どもがいま2歳で来月には3歳になるが、これもあっというまに大きくなってしまうんだろうか。子どもはとりあえず私をとおってきたが、むろん私のものでなく、時期が来たら、ゆくべきところへゆくだろう。 
 捨てられたグレースが、幸運にも生きて拾われて、私が母のように敬愛する人に育てられているのも不思議だが、私の子どもが、私を「ママ」と呼ぶのも、とても不思議だ。不思議でしょうがないけれど、せいぜい楽しむことにする。ほんとに楽しい。
 子どもに親孝行を期待するものではないと思う。人生の最初の数年間、これだけ親を楽しませてくれたら、それでもうお釣りがくるようなものだ。
 親としては、きみの存在を喜ぶことのほかに、何もできそうもないけれど。
 
 10月5日は、拉致被害者横田めぐみさんの42回目の誕生日だとニュースで言っていた。それを見てグレースの誕生日を思い出したのだ。ニュースのほうは何げなく見ていただけだったが、「流浪の民」を歌うあどけない声が聞こえたとき、ふと目が熱くなった。思えば同年代である。「流浪の民」は、小学校6年の秋に、音楽の授業で、ひとしきり聞いたり歌ったりした曲だった。
 
 いのちは、どこから来てどこへ、向かうのだろうか。