呼ぶ声

 帰国して数日、ぼうとして過ぎて、元旦の朝も、お正月らしいことは何もなく、前夜の残りものを食べて過ぎた。たぶん少しは疲れてもいたらしく、1日の夜は泥のように寝た。寝て起きて気づいてみると、あれこれの用事が一山ある。たたまなければならない洗濯物も籠からあふれ出ている。
 ちびさん、たたんだ洗濯物を蹴散らしてゆき、自分ではお手伝いのつもりらしく、まだ手紙を入れていない封筒に糊付けをする。切手はシールみたいでおもしろく、でもきみのおもちゃにするには金がかかりすぎる。さわらないで、舐めないで、やぶらないで。
 
 現像してきたフィリピンの写真を整理していて、悲しくなった。柵の向こう、ゴミ山のなかから声をかけてくれた女の子の、せめて写真だけでも、と思って撮った写真が、写っていない。ちょうど顔のところが、ぼやけた柵で隠されて、見えない。あんまりだ。やっぱりデジカメを買うべきだろうか。
 名前を、おぼえていてくれたのだ。私も彼女の名前をおぼえている。10歳の頃も、ゴミを入れる袋をひきずっていた。遠くからでも、呼んでくれて、振り向くと、すこしはにかんだような、でも満面の笑顔で、手を振ってくれた。学芸会のときに、赤い服を着て踊っていたのをおぼえている。
 すると次から次へ子どもたちの顔や名前が浮かんできて、なつかしくてたまらなくなった。勉強をつづけることができる子は少ない。学校をやめたあとのことはわからない。立ち退きで遠くへ行ってしまったかもしれないし、でも近くで、たぶんゴミ拾いをしながら、生きていたりするだろう。あと数日でも滞在できたら、集落も歩いたのに。柵の向こう側へゆくつても、きっとみつけたのに。
 
 ゴミの山に通いつづけた10年ほどの間、子どもたちが名前を呼んでくれたことに、私はどれだけ感謝すればいいんだろう。思えば、ひとりでゴミの山にのぼったり、麓の集落で迷ったりしてきたが、不安を感じたことは1度もない。どこにいても子どもたちが声をかけてくれたからだった。名前を呼ぶ、呼びかけてくれる声の、響きのひとつひとつが、私の中で、生きる力にかわっていったとわかるし、そのような声が必要だという心の事情は、きっと、大人も子どもも変わりはない。