「サラダ記念日」と「プーさんの鼻」の間

 所属、について。  
 思えば、あんたはヘンだ、おかしいよ、フツーじゃないよ。 というようなことは、小さい頃からたくさん言われてきて、でも私には私があたりまえなので、何をいわれているのか、いつもさっぱりわからないし、すると、人の気持ちがわかんないなんて人間じゃない、とかも言われたりして、どこにいても、いてはいけない場所にいるような、所属の感覚のもてなさは、なんだろうなあ、と思ったりしていたけれどもさ。
 
 中学校1年のときに、クラスの女の子たちが話していることが、何にもわからなくなって、途方にくれたことを思い出す。休み時間がつらいので、それで本を読んで過ごすことにしたんだけれど、それから10年ぐらいたって、俵万智の「サラダ記念日」を読んだときに、何がおもしろいのか、さっぱりわからなくてとまどった。中学校の教室で女の子たちのおしゃべりに感じた気持ちと似ていた。
 そのころは短歌を書こうなんて思ってなかったけれど(小説を書こうと思っていた)、自分と同学年の女の子の発言がわからない、というのは、とても途方にくれることだった。
 
 「サラダ記念日」を読んで、そうそうわかるわかる、とは全然思わなかったんだけれども「ガイドブック、アスペルガー症候群」を読んだときは、そうそうわかるわかる、と思った。 たぶん私は、ごくフツーに、アスペルガー症候群だ。ごくフツーに。
 もしかしたら、この、そうそうわかるわかる、というのが、所属している、という感じなんだろうか。
 
 そういえば数年前、俵万智の「プーさんの鼻」を図書館で見つけて読んだときに、そうそうわかるわかる、と思ったりして、そう思ったことにびっくりした。
 共感が生まれたのは、息子のおかげ。彼女の息子と私の息子と、生まれたのが2日違いなのだった。ときどき図書館で読む短歌の雑誌に彼女の作品が載っていると、ふうん、子どもがもうしゃべってる、うちのはまだしゃべんないな、とか、ネット上で育児絵日記を見る感じに近い、楽しんだりしているのが、ふしぎな感じがする。
 
 何書こうと思ったんだか。ああそう、所属、のわからなさについて。肩書きというものもとてもだめ。昔は、自分の名字さえ、家族への所属を強いられるようで、苦しくていやで、名字のない人間になりたかった。
 
 所属、は、たぶん今もよくわからない。電話で名字を名乗るのは今も苦手。でも、仲間、という感じが、最近すこしわかる。助け合って生きよう、という感じ。家族とも、友だちでいてくれる人たちとも。ゴミの山の子どもたちとも。
 
 生きてみるもんだ。