水ヲ下サイ

短歌ヴァーサス」11号、まだ読み終わらない。内容、よくわからなかったりするのだが、とりあえず読む。
「短歌の現在」という加藤治郎さんのコラムに、野樹の名前を見つけて息がとまるほど驚いた。「遍在/偏在する戦争」というタイトル。3首引用されていました。
 
 どうしてか知らないけれど抱きあっていたから焼けた半身がある
                         野樹かずみ
 伝えんとすればおのれを恥じるごとほてりはじめる跡なきケロイド
 靴として髪の毛として日常があふれるアウシュビッツの灰いろ
 
感激です。こんなふうに(「短歌ヴァーサス」11号P128~129)読んでもらえるなんて。ありがとうございました。
同じページに岩井謙一さんの歌も引かれていた。
 
 おそらくは今も宇宙を走りゆく二つの光 水ヲ下サイ
                     岩井謙一
歌はどこかで見た記憶がある。歌人の名前は知らなかった。
ちょうどそんなふうに、歌だけ記憶して歌人の名前を知らなかったのが、次の歌。
 
 われらかく地に人を埋めて来しゆえに雨を乞うそれが黒き雨でも
                           正岡豊
 
この歌を、最初に見てからたぶん十数年ぶりぐらいに、やはり「短歌ヴァーサス」の誌上で見つけたときには、昔なじみを探しあてたような気がしたんだった。
 
「水ヲ下サイ」は、被爆作家、原民喜の詩だけれど、18歳で、はじめて広島に来たころに、どこで見たのだろう、碑の前だったか、図書館だったか、原民喜の「碑銘」を読んだのだ。
 
 遠き日の石に刻み
 砂に影おち
 崩れ墜つ
 天地のまなか
 一輪の花の幻
 
あのときまわりの風景なんかは消えてしまって、ただ言葉の前に立ちつくしていた感じを今もおぼえている。これは何だろう、いま自分が見ているこの言葉は何だろう、自分が感じているこの気持ちは何だろう。それはそれまで知らなかったもので、今も説明できないけれど、その言葉に心がとらえられたことだけは、たしかだ。
原民喜の散文は、信じられないほど美しいと思う。昔、古本屋で見つけた原民喜全集三冊、むしょうに読み返したくなったりする。
でもいまは、昔みたいに、本のなかに沈潜するような読み方はできないだろうなあ、と思うと、昔、明日のことも明後日のことも、暮らしのことも将来のことも、日常の雑事もまわりの人たちのことも、なんにも考えずに(考えられずに)、なにもかも忘れて、文字通り、「本に読まれて」いたことが、なんだか夢のように幸福な時間だったと思えてくる。本を読むときは、本のなかにおぼれたいのだ。もう、どっぷり。
 
夢のなかで、世界地図の上をさまよっていた。中国経由でスペインに行くというわけわからない夢。なんだか胸苦しい夢で、へんな時間に目が覚めてしまった。ちびさんのせいだなあ。世界地図。夢のなかにまで出てきて。