「短歌ヴァーサス」11号、まだ読み終わらない。内容、よくわからなかったりするのだが、とりあえず読む。
「短歌の現在」という加藤治郎さんのコラムに、野樹の名前を見つけて息がとまるほど驚いた。「遍在/偏在する戦争」というタイトル。3首引用されていました。
「短歌の現在」という加藤治郎さんのコラムに、野樹の名前を見つけて息がとまるほど驚いた。「遍在/偏在する戦争」というタイトル。3首引用されていました。
感激です。こんなふうに(「短歌ヴァーサス」11号P128~129)読んでもらえるなんて。ありがとうございました。
同じページに岩井謙一さんの歌も引かれていた。
おそらくは今も宇宙を走りゆく二つの光 水ヲ下サイ
岩井謙一
岩井謙一
歌はどこかで見た記憶がある。歌人の名前は知らなかった。
ちょうどそんなふうに、歌だけ記憶して歌人の名前を知らなかったのが、次の歌。
われらかく地に人を埋めて来しゆえに雨を乞うそれが黒き雨でも
正岡豊
正岡豊
この歌を、最初に見てからたぶん十数年ぶりぐらいに、やはり「短歌ヴァーサス」の誌上で見つけたときには、昔なじみを探しあてたような気がしたんだった。
遠き日の石に刻み
砂に影おち
崩れ墜つ
天地のまなか
一輪の花の幻
砂に影おち
崩れ墜つ
天地のまなか
一輪の花の幻
あのときまわりの風景なんかは消えてしまって、ただ言葉の前に立ちつくしていた感じを今もおぼえている。これは何だろう、いま自分が見ているこの言葉は何だろう、自分が感じているこの気持ちは何だろう。それはそれまで知らなかったもので、今も説明できないけれど、その言葉に心がとらえられたことだけは、たしかだ。
でもいまは、昔みたいに、本のなかに沈潜するような読み方はできないだろうなあ、と思うと、昔、明日のことも明後日のことも、暮らしのことも将来のことも、日常の雑事もまわりの人たちのことも、なんにも考えずに(考えられずに)、なにもかも忘れて、文字通り、「本に読まれて」いたことが、なんだか夢のように幸福な時間だったと思えてくる。本を読むときは、本のなかにおぼれたいのだ。もう、どっぷり。
夢のなかで、世界地図の上をさまよっていた。中国経由でスペインに行くというわけわからない夢。なんだか胸苦しい夢で、へんな時間に目が覚めてしまった。ちびさんのせいだなあ。世界地図。夢のなかにまで出てきて。