「翼」

「李箱作品集成」が届く。
「翼」という短編を読んだ。衝撃を受けた。
 
むかし読んだ金史良の作品群を思い出したりする。また読み返したい。
天にのぼるんだ、と叫んだ、植民地の滑稽な男の話があった。
 
だが、これはいつの時代のどこの国の話だ。
李箱の「翼」は、植民地朝鮮の肉体を描いている、という解説の文に、納得するんだけれど、
きっと、現代日本の肉体だと言われても、不思議じゃない。
 
ひきこもり、とか、ニートとか、主人公の「僕」はそんな男だ。
「妻」から、餌のような食事と小銭を与えられて、奥の部屋にひきこもっている。
ときどき妻の留守に、妻の部屋で香水の匂いを嗅いだりする。
 
怠惰についての、ホセ・リサール(『ノリ・メ・タンヘレ』の著者)の論文を思い出す。これも再読したい。
怠惰の背後には搾取がある。
そういう内容だった。
 
ホセ・リサールの論文、
「フィリピン人は怠け者だからね」と、マニラで、エアコンのきいたオフィスにすわって言ったあのときの日本人に、読ませてやりたいと思った。
子どもたちはゴミの山で働いていたのに。私はその話をしていたのに。
 
他民族を搾取した精神は、やがて自民族を搾取するようになる、と思う。
きっと、搾取がひどくなっている。
それぞれの壁をへだてて、「僕」たちは壊れてひきこもる。ひきこもって壊れる。
「妻」は「母」かもしれない。母と息子のそのような関係は、たぶん、見飽きた現代の風景だ。
 
おかあさん。そんなに疲れて。
おかあさん。そんなに酒の臭いをさせて。
私のおかあさん、朝からも働きだしたのよ。今まで夜だけだったんだけど。
 
魯迅の「狂人日記」を思い出す。
四千年人肉を食らい続けた歴史、は、普遍的。
 
本をぱらぱらめくったパパが、「首の切れた中原中也みたいだ」と言った。
ときどきどきりとすることを言う。「ただの直観だけど。」
そういえば、死んだ年が一緒だ。1937年。
帝都東京で、苦しんで生きて死んだことも。
李箱が、不逞鮮人として、留置所にはいっていた頃、中也は精神病院に入っていたのではないだろうか。
どちらも、そこから出てきたその年のうちに、死んでいる。
関係ないかもしれないけど。
 
同じ帝都東京に、金史良もいた。「光のなかに」が芥川賞候補になったのが、1939年。 
 
帝都東京。
パパがへんなことを言うから、首のちょん切れた鶏が、都市を走りまわっているのを想像してしまう。
 
アルバート・アイラーのジャズを聴きたくなる。突然。なんにも関係ないけど。
 
金素雲の朝鮮童謡選の序文は、涙が出るほど美しいと思う。
いい人だと思う。
「天の涯に生くるとも」という自伝エッセイに「李箱異常」という章があって、これだけ取り出して読み返した。
李箱が、<犬畜生>に見えた、というくだりは、胸にくる。
素雲は、<犬畜生>の世話係でもあったのだが。
 
翼は。