前線

桜前線がどうなっているかわからないけど、今日は雨。向いの森の桜、まだ満開になっていないのだが、散らないといいなあ。

きっときみは、どこにいても前線にいるような、感じだろう。きっと宿命的にそうだろう。ほかの子どもたちと同じ場所にいながら、溶け合っていない子どもを見ながら思った。

最初はすべり台だった。すべり台がこわくてすべれないちびさん(しかし階段はのぼりたい)と、すべり台をすべりたい3歳の男の子と、ふたりがすべり台の上で身動きとれなくなっていた。それですこし交通整理してやると、ふたりの間にルールが生まれ、男の子はすべって、ちびさんはすべらず、でもぶつからず、両方が満足して一緒に遊んでいた。
それからしばらくして、さっきの三歳児やその子のお兄ちゃんらしい小学生たち、男の子たちと一緒にいるなあと思って、にごり酒のみながら、遠くから見てたら、ちよっと様子が変。ボールを渡されたちびが、喜んでそれを投げて追いかけてしていたが、すぐに取り上げられてしまう。かわりにみかんを投げられると、ちびは大喜びでみかんを地面に投げては追いかけている。
空気にいやなものを感じたので近寄っていくと、ひとりの男の子が、「あの子、みかんを投げている」といいつけにくる。一番大きい子がボールをふたつも抱えてすわっている。その手前で、さっき一緒に遊んでいた三歳児が、あっちいけ、くるな、というふうに手足をふりまわしている。
お兄ちゃんたちがきたことで、そこには徒党というものが出現しているのだが、ちびさん、そんなことは理解できない。
投げたみかんを拾いにゆかせて、「みかんは投げません」とだけちびさんに言う。
ちびさん、一緒に遊びたそうに立っているが、こんな子たちと遊ばなくていい、というのが私の本音。「一緒に遊んであげて」とか、声をかける気にはさらさらならないのだった。
「かえるよ」と、私がとっとと帰りはじめたら、ちびさんもあとを追ってきた。にごり酒、もうすこし飲みたかったんだけどな。

本能的に、徒党というのは私は嫌いなのだ。ひとりでいるときと群のなかにいるときと、表情を変える人間が嫌いである。権威を後ろにつけて、威丈高にふるまう根性は、畜生道である。三歳の子どもに畜生の顔を見て、えらくやりきれない気持ちになった。おとなのそれは、唾棄するのみ、と思うが、子どものそれはまだ痛ましくかんじられる。

今回に限ったことでもない。相手がふたり、さんにん、となると、向こう側に、ふたり、さんにん、がいて、こちら側に、ちびさんひとりでいるのだ。子どもたちの間の、暗黙の了解が理解できない。ほかの子たちが、なんとなく、溶け合ってしまうところで、溶け合ってしまえない。

大勢の集団になると、全速力で逃げだしてしまう。それは好きなDVDを見ていても、たくさんの子どもがにぎやかに歌っている場面が、こわいと、その場面になると逃げ出すほど。

で、私もちびさんと同じであるから、どうすればいいかわかんないのであるが、とりあえず、次のことを言う。
あっちへ行けと言われたら、執着せずに、自分からバイバイしなさい。それでほかの場所で自分の好きなことをするといい。きみにいじわるをする人間とは、そもそもつきあわないほうがいい。いじめられたら逃げなさい。いい人間は、きみみたいな子に決していじわるはしません。そういう人とだけ、仲良くなればいいんです。
きみは本を読むひとになりなさい。勉強が好きなら、勉強しなさい。孤独に耐えられる人になりなさい。それから、みかんを投げてはいけません。みかんは食べるものだから、ほかの人が、みかんを投げてよこしたからといって、きみは、みかんを投げてはいけません。