詩と短歌のコラボ/他者と共にある

詩と短歌のコラボ、していました。秋に。詩人の河津聖恵さんと。
テーマは路地。一ヶ月半くらいの間に、詩が30篇ほどと短歌が220首あまり。来月、作品集ができます。
こんなに短期間にこんなにたくさん書いたのもはじめてだし、第一歌集がかれこれ20年かかったのを考えると、こんなにすらすら本になるって、不思議なんだけれど、河津さんが、すらすらすすめてくれている。すごい。
できあがったものが何かは、読んでもらってのことですが、コラボはものすごく面白かった。

で、出版記念に何かしましょうか。何か案がありますか、と訊かれて、考え込んでいる。
思いつくことと言ったら、ゴミの山の学校のチラシを配っていいかしら、とか(ゴミ山の路地のこともたくさん書いたのだし)、募金箱置いていいかしら、とか、関連グッズを売っていいかしら、とか、そんなことぐらいで、こういうとき、詩人や歌人は何をするものなのか、さっぱりわかんない私だ。

話かわって、パアララン・パンタオは、なんと来年、開校20周年。
写真展しようか、というような案が出ています。子どもたちの絵でファイルをつくるとかも。
写真展、お金をかけずにやれればいいなあ。ファイルは、売れる売れないは別にして、スポンサーさんたちへのお礼につくりたいかなあ。もう十数年、支援をつづけてくれている人もいるので。元手を工面できるか、考えたいと思います。
20周年だもんね。20周年。レティ先生、凄すぎる。
私も、せめて自分が見てきたことは、書いておこうと思います。

イベント、というのは難しい。店出しなどは、収益のためでなくアリバイのためだとわりきったほうがいいくらい。赤字にならなければ上出来。でも、何かできることを探してあがいていれば、それを見かねて、天が味方してくれたりするだろうと、ひそかに強く思っています。

こんなことしても貧困は解決しないでしょ、とか、最近私は言われないけど、以前はよく言われた。その度に考え込んだもんだ。解決って、何だ。貧困はある。そこには人間がいる。問題はある。そこには人間がいる。人間の存在は、解決するものだろうか。
(最終解決──ナチスの収容所はそのためにつくられたわけですが。)

人間がいるのなら、一緒に生きてみるだけのことなのだった。
何かが解決するかしないかは結果論で、私たちはただ、一緒に生きてみる仕方を模索することができるだけなのだと思う。
そのほかに、できることはないと思う。

河津さんとのコラボ。寄り添って走ってくれる人がいるという感じが、幸福だった。しかも一歩ずつ、あれこれと美しい景色をひらいてくれる。そんなふうに、パアララン・パンタオに寄り添うことができるといい。
(そういえば、河津さんの詩論「ルリアンス」の副題は「他者と共にある詩」というのでした。)

きっと、どこかへ行きつくということは、ない。
うろうろと路地をめぐり、お金がないとか何だとか、おろおろしながら一生を過ぎていくだろう。いくだろうなあ。でもたぶん、楽しいような気がする。レティ先生や子どもたちや、友人たち、いてくれたら。

机にはゴミの山からやってきたキューピーさん。
背中に天使の羽根もある。なかにコインが入っているが、こわれていて、取り出せない(のが、なんだか人生だ)。