反重力

 「重力と恩寵」という言葉は(ヴェイユの死後、彼女の雑記帳を託されたティボンが、そのなかから抜粋した断片集につけたタイトルだが)ヴェイユの思想の本質にあるものを、よくイメージさせてくれると思う。
 重力とは何か。たとえば次のような言葉。

  「魂の自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。」

 ヴェイユは、重力のありようを、本当に注意深く見つめた人だけれど、願ったのは、反・重力であったと思う。

 中上健次が、路地の物語に溺れこむように物語を書きながら、何かの対談で、本当の反・物語を求めていると、たしかそのようなことを語っていたのが印象的だったが。

 反・重力、反・物語、また別の言葉で、宿命の転換。

 昨日の友人のメールのつづき。
旧約聖書にあるユダヤ人の受難の『記憶』は、現イスラエル人にとって、まだ現実なのか?」のあとに、
「神話を克服するには、新しい神話をつくるしかない。そう考えるのは、僕だけではないと思う」と。

 新しい神話、反・重力、反・物語、宿命の転換、という神話。

 新しい神話を紡ぎだせる宗教があるか、ということだったろうか。ヴェイユの次のような言葉は。(彼女はユダヤ教を拒否し、カトリックを信じたが──名前のうえでカトリック(普遍的)だが現実はそうではない、という理由で、洗礼は受けなかった)  

 「ともかくも新しい宗教が必要なのである。まったく別のものとなるまでに、変化したキリスト教か、それとも別なものか」

 きっとどんな宗教についても言えることなのだが、「宗教は、なぐさみのみなもとであるかぎり、ほんとうの信仰の妨げになる」というヴェイユの指摘は重要だ。
 信仰とは、自己の救済を求めることではなく<善>を求めることでなければならない。
 盲目的な救いへの欲求は、たやすく権力への欲望にすりかわる。

 いまのイスラエルは、救いを求めているかもしれないが、善を求めているとは、いえない。きっと、民族のよりどころであるはずの、信仰を裏切っているだろう。

 というようなことを、思った。



 反重力の物語を憧れる。それはたとえば、パアララン・パンタオの、あのささやかな学校を守りたい気持ちにつながっている。

 

 今朝の雪。かわいらしい綿帽子、といった感じ。