釜山の友だち

広島発着の(たぶん)高速バスに乗ったら、背もたれの網のなかに入っているのだと思う。無料配布の情報誌。Busport。
旅について、短いエッセイを書きました。

友だち、という言葉を、はじめて信じた(信じるに値する言葉かもしない、と思った)のが釜山だった。十代半ばから二十歳頃、かるく人間不信だったのだ。

日本で死にたくなったら、日本を出てみればいいのだ、と、あの最初の旅でもらった希望は、その後の人生に、役に立った。とっても役に立った。
 
 
 釜山の友だち
    ──一九八四年韓国ひとり旅
               
 下関港からフェリーで釜山に渡った。はじめての海外旅行は一九八四年十月、私は広島の学生だった。韓国語は七つの単語しか知らず、行く先も宿泊先も決めないままのひとり旅だった。
  釜山の日本語学校の住所だけを知っていた。以前、韓国を旅した友人が教えてくれたのだ。港の近くのその学校で、日本語を専攻する大学生たちと親しくなった。尚姫や英美たちと一緒に龍頭山公園や国際市場を歩いた。店先に飾ってある豚の頭や何十種類ものキムチ。目にするもの口にするもの何もかも興味深く、一緒に日本語学校の授業を受けたり、大学の講義にもぐりこんだり、他愛ないお喋りをすることも楽しかった。バスに乗って海雲台ビーチにも行った。(季節はずれの海水浴場でガムを売り歩いていた少年の、汚れて擦り切れたセーターの袖口を思い出す。)
 夜、みんなで飲んでいたとき、朴という男子学生が言った。「韓国に来て、日本語を話している自分を、恥ずかしくないですか」。少し空気が緊張した。その言葉には、日本はかつてわが国を侵略した、そのことをどう思うのか、という響きがあった。「もちろん恥ずかしい。でも、韓国語ができないとためらったら、私は韓国に来れない、あなたにも会えない。それは残念なことだと思う」。たぶん、そんなことを私は言ったのだが、それで納得してくれたらしい。朴さんの父が少年時代に日本軍に強制労働させられたことは、翌年再会したときに聞かされた。
 私が尹東柱の詩を好きだと言ったら、みんなその詩を知っていて、ハングルの原詩を教えてくれた。心がぐんと近くなったのを感じた。「チング(友だち)」という言葉を教えてもらった。友だちと一緒にいるという強くあたたかい気持ちがした。
 日帝時代、日本に留学中に治安維持法で逮捕され福岡の刑務所で二十七歳で獄死させられた詩人は、本当に美しい詩を書いた。
 
 序詩     尹東柱     
 
  死ぬ日まで空を仰ぎ
  一点の恥辱なきことを、
  葉あいにそよぐ風にも
  わたしは心痛んだ。
  星をうたう心で
  生きとし生けるものをいとおしまねば
  そしてわたしに与えられた道を
  歩みゆかねば。
 
 今宵も星が風に吹きさらされる。
                        (伊吹郷訳)
 
 釜山に着いて四日目の朝、慶州に行くためにバスターミナルまでタクシーに乗った。タクシーを降りてお金を払うとき、三日間一ウォンもお金を使っていないことに気づいた。夜は学生たちの家に泊めてもらっていた。食事も交通費も誰かが払ってくれていたのだ。胸がいっぱいになった。あのときの釜山の友だちの記憶は、いまもやさしくなつかしい。