メモ。 いじめの構造

『自殺』(末井昭)という本に次のような文章があるらしい。友人が教えてくれたので、メモ。
いじめの構造について。

(末井昭の文章)
『いじめの構造』という本を読むと、社会学者の内藤朝雄氏の「いじめの発生メカニズムモデル」を参考にして、いじめの加害者は、自分の「癒し」のためにいじめるのだと書いています。
  要約すると、人には「無条件的な自己肯定感覚」があり、それを基礎に現実社会を生きている。人々は様々な否定的体験(迫害、拘束、無力感、苦痛、屈辱、不運など)に出会っても、この「無条件的な自己肯定感覚」を支えに、否定的体験を乗り越えていく。しかし、迫害や拘束、学校独特の心理的距離の強制的密着などが過度になるとそれが破壊され、否定的体験を受け止めることができなくなり、体験にリアリティーが失われる。次に強烈な精神的飢餓を生じさせ、全能欲求を生み出す。全能欲求は夢想やゲーム、漫画の主人公への自己投影などで処理されるが、ときに「いじめ」という行為で全能欲求を具現化しようとする人がいる。

(ここから森口朗「いじめの構造」の文章)
 ですから、いじめの加害者にとって、いじめは同時に「癒し」でもあります。それゆえ、彼はいじめの被害者が自分の思い通りにいじめられてくれない時には、「癒されるべき自分が癒されない=被害者」であるかのような憤怒を覚えます。このような怒りは理不尽この上ないものですが、被害者意識に取り憑かれた加害者は、さらにいじめをグレードアップさせてしまうのです。


息子が小学校の頃、いじめられた時のこととか思い出すけど。あれは、親にならなければ経験しなかっただろう怒りだと思うわ。担任に手紙書いたり、校長室に行ったり、クラス替えを要求したり、したけど。いじめがおさまっても、全然解決した気にならなかったのは、いじめた側の姿(その変化)が、私からは全く見えなかったからなんだろうな。いつまた連中にいじめられないとも限らないという怯えを、小学校卒業するまで、息子はもっていたし、大丈夫だよと私は言ってやることもできなかった。