夜に降る雨 朝に降る雪

木曜朝の雪景色。夜は雨が降っていた気がするのだが。Cimg6692

6年前の震災の日にも、雪が降っていたり雨が降っていたりした記憶がある。このあたりに、なのか、被災地に、なのか、もうわからないけど。

雪の上に雨が降ったり、雨がまた雪に変わったりするのを見ていた。

あれから、世界の壊れやすさを考え、すぐに忘れ、そしてまた思い出す。この世界には壊れやすいものしかなく、壊れたらもう、もどらないということ。

ようこそアラブへ』(ハムダなおこ)という本をこないだ読んだ。著者は20年間ほどアラブ首長国連邦に暮らしている。アラブの伝統や習慣が秘めている価値観やものの考え方が興味深かった。
フィリピンの友だちが、ドバイに出稼ぎに行っている。そんな遠くまで働きにゆくなんて、凄いことだと思うけど、どんな国かもわからないし、想像もつかなかったけど、本にはキリスト教徒のメイドさんのことも出てきて、問題なくやっている。

息子が読むといって学校に持っていったので、正確な引用ができないが、「エレガンス」という言葉が心に残った。名誉を守る生き方、振る舞い方のエレガンス。何世紀にもわたって、その地域で暮らす人々の、つつましい幸福を守ってきた「エレガンス」が、なんだかとても素敵だった。

でも戦争や、国家の不安定や、いろんな事情で失われてゆくと、もう2度と戻らないような、はかない何か。

たとえば私が、母たちから受け継がなかった「エレガンス」もたくさんあるだろうなと思ったりした。戦争のせい、貧困のせい、故郷を離れたせい、時代のせい、家族のせい、私自身のせい、なんにせよ、
失っているものを、思い出すことってできないんだけど、「エレガンス」のかけらももっていない自分だろうなという、苦い自覚はあるよなあ。母が持っていて、私がもっていないものを、言い当てるような言葉だわ。

ふと思い出した。もう20年以上前、フィリピンのゴミ山のふもとの学校、パアララン・パンタオにはじめて滞在したとき、「宿泊や食事のお金をもらうことは、フィリピン人のホスピタリティーに反するからできない」といって、レティ先生は受け取ってくれなかった。お金がなくて電気代が払えないときでさえそうだった。あれはレティ先生の「エレガンス」だったのだ。
私はその、エレガンスな人のそばにいたかった。
レティ先生はいまも、エレガンスで、去年、日本から来た学生たちのために、食事を用意できなかったからといって、人数分のミールセットの出前を取ってくれた。
(でも私はエレガンスではないので、食事代を徴収しましたけど)。

ほんの少しのエレガンスが、人間の名誉や尊厳を守っているかもしれない。たとえば畑の野菜をおすそ分けするとか、そんなことでも。
戦争や、貧困や、あるいは故郷を失う痛ましさは、「エレガンス」が失われてゆく痛ましさであるかもしれない。

とてもはかなくてとても貴重なもの。



JRの延伸区間が、開通した初日、記念切符が売り出されたが、息子が買いに行ったときははすでに売り切れていた。でも学校の先輩が何セットか買っていて(朝早くから並んだらしい)ゆずってもらって、大喜びだった。額に入れたいがちょうどよい大きさのがない、額をいれていた箱が、ちょうどよい大きさだった。こんな感じ。Cimg6700