クリスマスの季節

3日ぐらい前に初雪。

息子、帰りが遅くなるのは、どっかの予備校の冬期講習の無料(ここ大事)招待券をもらったから行ってくる、という理由だったが、ズボンに草の実がついているのは、冬期講習じゃなさそうだよ。
講習のビデオ、早送りで切り上げて、芸備線のほうまで、電車の写真とりにゆかれましたね。雪景色のなかを電車走ってくれるとよかったんですけど、雪あいにくやんだね。暗くなるまで、寒いなか、人けのない線路沿いの草地にいたみたい。(問いただしたらあっけなく白状した。別にかまわないけど、風邪はひかんでほしいと思うよ)

先週、修学旅行の説明会があって、学校に行ってきた。コロナでオーストラリアはゆけなくなったから、2月に沖縄、のはずが、この情勢なので、九州にしましょう、ということになっている。熊本長崎。でも、まあ感染状況によってはどうなるかわからない。熊本長崎は、4年前に青春18きっぷで行ったよね。それでも楽しみは楽しみらしい。私は、海外から国内への変更で安くなった分の、積立金の返済が楽しみ。

向かいの森の雪景色。

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1年が早い。今年、1年分なかったような気がするのに。もうクリスマスの季節だ。

思い出したので書いておこう。

1994年の今頃。ああもう26年も前。
クリスマス前の2週間ほどを、パヤタスで過ごした。フィリピンへの2度目の訪問のとき。乾季のゴミの山を体験したのは、あのときだけかな。
ゴミ山からは煙がもくもくあがってて、自然発火の炎があちこちあがってて、山に登ると(毎日のぼっていたのだ)足の裏が熱かった。夜のゴミ山は、自然発火の炎と、トラックのライトと、夜に働くスカベンジャー(ゴミを拾う人たち)の灯すアルコールランプ(ビールの空き瓶を使ってた)の、それぞれ違う色の炎が、闇のなかにゆらめいていて、それが異様にきれいだった。

夜のゴミ山にのぼった。一緒にのぼってくれた男の学生は、山の登り口あたりで、ゴミ拾いしている人と話しはじめたから、私はひとりで登って行った。
あれは本当に不思議な体験だったんだけど、ふいに空気がやわらかくなって、体が自然にぐんぐんと運ばれてゆく感じ、あたりでは、大人たち子どもたちが、ゴミを拾っていた。乾季、昼間は熱いので、夜働くのだ。
働く人たちを見ながら、ものすごくなつかしい感じにつつまれた。私は、生まれるずっと前から、この人たちと一緒にいたし、ずっとあともこの人たちと一緒にいるだろうと思った。思った、というより、わかった。大きな生命の流れ、があって、私もそのなかにいるとわかった。

常楽我浄という言葉を思い出した。思い出した、というより、体験していた。永遠(常)だし、楽しい(楽)し、自由(我)で、清らか(浄)。その感覚がとても生々しかった。生命は、本来そういうものなのだ。私、大丈夫だわ、とわかったのだ。

その感覚がずっと続いたわけではないんだけれど、やがて薄らいでゆくんだけれど。

その2週間、はじめて会う人たち子どもたちを、私はずっと昔から知ってるような気がしてしかたなかった。なつかしいとか愛おしいという感情が自分にあることも驚いたんだけど、
でも同時に、何かを破壊しそうな、傷つけそうな力も自分のうちにあるのが感じられて、それを抑え込むのは大変だとも感じた。「春と修羅」だ、と思った。破壊神という言葉もあるし。

昼と夜とが闘っている、とユゴーだったと思うけど、ああそうだなと、昼間、もくもくと煙をあげるゴミの山とその向こうの青空を見ながら、思った。

ドストエフスキーが「おかしな男の夢」で書いたことは、本当だなあと思った。自殺しようと思っていた男が、夢でもうひとつの地球に行って、常楽我浄な人たちに出会って、自殺をやめたという物語。でもその男が行ったせいで、もうひとつの地球のほうは、争いの絶えない地球になるんだけど。

何年か後に、ゴッホの絵を見たとき、あのときの、生命の流れ、の感覚がふいによみがえってきたことがあった。安田火災の、ひまわり。

ヴェイユを読んでいると、神との接触、という言葉に出会う。それで私が思い出すのは、あのゴミの山の一夜。それから、宮沢賢治が「春と修羅」の序、で書いた景色。
宗教的体験の普遍性。

未だにちゃんと読んだことはないんだけれど、聖書や法華経には、あの夜に私が体験したことが書かれているのかもしれないと思う。

あの年のパアラランのクリスマス・パーティは、クリスマスツリーは、柱にタコ糸を円錐状に張ってつくった。子どもたちは段ボールに綿をはりつけた天使の翼を背負っていた。楽しいクリスマスだった。

パアラランへクリスマス前の送金。気にかけてもらって、ありがとうございます。
パアラランはディスタンス・ラーニングを続けています。今年は、クリスマス・パーティはなし。子どもたちの家族に、食料などのクリスマスギフトを配ります、ということです。