旅の仲間 春の旅3

旅の3日目の午後、熊本から阿蘇へ向かう。4年前に地震で不通になったのが、全線復旧している。遠くに復旧した阿蘇大橋も見えた。息子がビデオカメラを取り出して、窓を少し開けて、撮り始めたのは、スイッチバックを撮りたかったからだが、途中で、冷房入れたから窓閉めてくださいね、と言われて断念。
阿蘇で、火口へ向かうバスの切符買う。時間までの間に昼ごはん食べたい。あんまり時間ないし、食堂でもいいよ、と私は言ったが、「見てごらんよ、表のアイスクリームでさえこんなに高いよ、店のなかに入る勇気はない」と息子が言う。それは同感かも。コンビニまで少し歩いて弁当買って、駅にもどってホームで食べる。

阿蘇。火口までゆくのは中学の修学旅行以来。あんまり歳月が過ぎて、この世の記憶とも思えなくなっていたけど、たしかに、この世の景色だった。
草千里、三好達治の詩の景色のような景色を記憶しているんだけれど、いまは野焼きの後で、一面の末黒野。それはそれで圧倒的だった。

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頂上のほうでバス乗り換えて、火口まで。今日は火口をのぞけますよ、という話だったのに、バスを降りたとたん、濃度が強くなったので、避難してください、と言われて、あらら残念、と思っていたら、展望台は行けるからというので、展望台に行く。しばらくしたら、火口見学大丈夫ですよと言われて、見にゆけた。
息子がえらく感動していて、連れてこれてよかったと思った。

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  阿蘇山で拾った石がいつまでも箪笥の上に意味もなくある

という短歌を以前書いたことがあって、想像のなかで、子どものころに過ごした家の箪笥の上に石を置いたときに、あの家で流れていた時間を思い出したんだけど、ほんとは石なんかなかった。
でも書いてしまったせいで欲しくなった石だったので、嘘をほんとにしよっと思って、拾って帰った石が、いま机の上にあります。すこし硫黄の匂い。

暮らしのなかには、意味や思い出がありそうでなさそうなへんなものが、いつまでも転がっていたりする、と思う。ま、片付けられん、というだけの話かもしれん。

駅に戻って、息子は日暮れまでに行きたいところがあった。列車を待っているわけにもいかないので、タクシー使う。ひと駅半ほど引き返したあたりのコンビニで降りて、足痛そうな母を歩かせるのは悪いと思ったらしい。この先に駅があるから先に行ってて、と言っていなくなってしまった。
陽が沈む前に、ポイントにたどりついて、がたんごとん撮りたかったんだよな、私だって見たいから、あとからゆっくり追いつこうと思ったのに、気づくともう、見当たらん。駅と反対側の方向に彼は行ったらしいのだ。
ひとりで西日のなかを散歩しながら駅まで歩いた。菜の花が咲いてた。沼があって、鳥がしきりに鳴いていた。

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夕焼けの駅で落ちあって、がたんごとんに乗って、いくつか先の駅まで行く。ホテルに着いたころは真っ暗。途中のドラッグストアで晩ごはんと湿布買う。息子、食べて、カメラと携帯充電したあと、また駅の踏切あたりまで遊びに行っていた。

 

息子が夕方の阿蘇で撮りたかったがたんごとん。

何時ごろ、どんな電車がどんな編成で走っているかという最新の情報は、前日に千綿の海の駅で、地元のおじさんたちから聞いていたらしい。

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