反日という罠

自分が短歌書いてるとか、本名とは違う名前を使ってるとか、暮らしの現場では言わない。親たちも知らない。(だから誰もつげ口してはいけない)。
でも、たまに出会ったりする人のなかに、知ってる人もいないわけではない。
それで、たまに出会ったりして、最近どう?とか聞かれて、
こないだ朝鮮学校で朗読会やって、
みたいなことを話すと、
「あそこは反日教育だろう」
とすこし気色ばまれたりして、暗澹とした気持ちになる。
この人にしてこの程度の理解か、とかなしい。
反日教育、とレッテルを貼った時点で、知性を放棄したに等しい、と思う。

何が反日教育なのか、をあなたは自分の言葉で語れないだろう。
だったらそれは言ってはいけないことなのだ。

学校に行ったことはないでしょう?
先生や生徒たちと話したこともないでしょう?
彼らの立場に立って考えたことがないでしょう。

たまたま、朝鮮学校を取材した記事のコピーを鞄に入れっぱなしだったので、渡したけれど、もしもこれを読んでくれて、それでも理解してもらえないとしたら、どうしたらいいか私はわからない。

「あそこは反日教育だろう」と言うとき、言う人の心が険しくなるのが、さすがに私にもわかって、こわいなあと思った。
この善良な人にしてこうだ、世間はいったいどんなだろう。
異質なものへの排他的感情というのにはしばしば出くわすんだけど、ああ、日本人はこわいなあ。
日本人の私がそう思うのである。もう口ききたくないな、とかさ。
この国で朝鮮人として生きていくのは、どれほどたいへんだろう。まして日本人に向かってものを言うのは、どれほど勇気のいることだろう。

  反日という罠もある阿Qらが穏やかならざる行進をする    かずみ

5年くらい前かな、中国で反日運動が起こったとき、つくった歌。
反日」だから愛国無罪というのと、反対のようだけど同じことで、反日だから、基本的人権(子どもたちには民族教育を受ける権利がある)を踏みにじってもいいし、差別してもいいというようなことになっているこのありさまは、
反日という罠」に日本人みずから落ちているのではないだろうか。