工夫して生きんと

金曜日、パアララン・パンタオにクリスマス前の送金する。
いくら送るか。毎回500ドル単位でものすごく悩むんだけど、給食費用が不足しているとわかっているので、少しでも多く送りたくて、今年はかなりの自転車操業ぶりなのだった。
で、送ったあと、心細くなりながら帰ってきたら、スポンサーさんからの振り込み通知が届いている。ああっ、泣きたいほどありがたい。
助けてくださるみなさま、ありがとうございます。
18日の土曜日、クリスマス・パーティです。
いまごろダンスの練習やプレゼントの準備で先生たち大忙しだと思う。



土曜日、弟から、半年ぶりぐらいかな、電話。
いま、香川にいるらしい。仕事なくなって、困っていたが、造船の下請けの仕事を紹介してもらった。住所も電話番号も、こまかいことは本人もわかんないままでいるらしいのだが、つまりわかんないままなのだが、先月から香川で働いている。
なんとか食ってるらしい。感心感心。
「姉さん」という声が明るくてさばさばしていていい。無心するときの声は、後ろめたそうで、それを聞くのがやりきれない。
してあげられることなんかなんにもない。

食える食えないは、自己責任、なんだろうか。いや、自分のほかに誰も責任をとらないという意味なら、むろんそれはそうなんだが。つまり見捨てられるってことだ。
思うに、この世に、自分が足をおろしていていいという、その正当性を疑わないでいられるのは難しい。仕事をよこせとか屋根や金や飯をよこせとか、世の中に向かって言うのは、ものすごく、なんていうかものすごく、勇気のいることだわ。

いろんなことが綱渡りではある。とりあえず屋根と米があるにしても、つきつめれば自分の身の上もそうなのだ。立っているのは、石ころひとつ転げたら、雪崩れそうな地面の上かもしれない。

とりあえずこの家は、地面ではなく、廊下の床が踏むとぶかぶか沈むので、穴が開かないように、安いカーペット買ってきて敷いた。これですこしはもつか。

「姉ちゃんよ、工夫して生きんと」

最近はもう街を歩くこともほとんどないんだけど、昔、街を歩いているとなぜかよく会う、ダンボールを抱えたホームレスのおじさんいて、別に挨拶もしないけれど、いつだったか、一緒に信号待ちをすることがあって、そのときに、ふいに声かけられた。

「姉ちゃんよ、工夫していきんと」

ふりむくと、おじさんもこちらを見て、それから信号を渡っていった。
あの声が耳にもどるなあ。

圧倒的に生きる工夫が足りない。言葉を変えれば「怠惰」というんです。
言葉を変えれば、苦手なことが多いだけかもしれないけど。12月だからかな。片づけなきゃとか、掃除しなきゃとか、脅迫観念が。
ああ。

ダンボールのおじさん、どうしているかな。
もう、それが誰の運命であってもおかしくない、と思う。

  子どものまま老いる空にも夜はきて あの子は帰る家をもたない     かずみ