食べられる草食べられない草

畑、と呼ぶのはためらわれる。
冬は寒いから、と怠けて、春になっても、まだ寒いから、雨だから、と怠けて、たまにいい天気だと今度は、暑いから、と怠けているうちに、空き地の畑は草ぼうぼうになってしまった。
畑のつもりのものは、おびただしい草に侵食されようとしている。
農場主はもうとっくに飽きてしまっているし、パパは、何が野菜で何が雑草かわからん、と言うし、しょうがない、私が働くしかない。
この半年でわかったことは、心こめてお世話しないと、野菜ってうまく育ってくれないってことだ。畑、の姿を失いはじめた空き地には、食べられる草と食べられない草が混在している。たぶん、もうすこし怠けたら、冬のあいだの開墾は元の木阿弥になるだろう。

バス停まで子どもを迎えに行くのに坂道を降りていると、下の畑から戻ってきていたおばあさんが、名前知らない、幼稚園の頃から、幼稚園バスを待っているときなどに、よく話しかけてくれるおばあさんだったが、そのおばあさんが、「まあ、ぼくはしっかりしてきたね。驚いたよ」と言ってくれる。パパと帰ってきた日に「ただいま帰りました」って挨拶したらしいのだ。幼稚園のときに、私の背中に隠れたりする姿ばかり見ていたから、おばあさん本当に驚いたらしい。そう、彼がえらくしっかりしてきたことは、私も驚きなのだ。
「ほめてやんなさいよ。畑のおばあさんが、挨拶できてえらいねえって言ってたよって、ほめてやんなさいよ。子どもはしっかりほめてやったら、うれしくてまたがんばろうって思うから」としきりに言ってくれたのでした。

はい。で、ほめてやりました。このあたりの子、バスから降りたあと、老人会のおじいさんおばあさんたちの見回りパトロール隊と一緒に帰ってくる。で、道で会う人に「ただいま帰りました」と挨拶するんだな。感心なことに。

帰りに畑に寄ったら、苺が一個赤くなっていた。収穫。明日もまた一個赤くなるだろう。農場主、帰って苺を食べたら、少しやる気になって、朝顔の種を植える、と言い出した。また畑に行って、朝顔の種を植える。

はつかだいこん収穫。グリンピース少し収穫。まだ少し小さいかな。にんじん間引きしたやつ収穫。水菜は身長5センチで花が咲きはじめた。これはだめだけど、だめなまま収穫。レタスとセロリとパセリ、すこしずつちぎる。畑の外のふきも収穫。ここんとこ毎日ふきの煮物。葉っぱも料理して食べる。

はつかだいこんやグリンピースやにんじんその他は、まとめて鍋のなかに飛び込んでもらった。食べられる草のスープ。
でもなかに、少し、食べられない草もまざっていたらしい。
畑の野菜と雑草の区別はつかないらしいのに、椀のなかの野菜と雑草の区別はつくらしく、パパがよりわけていた。
「りくとママのお椀のなかには、食べられる草しか入ってないから大丈夫だよ」と暗示にかけて、食べさせた。