『チェルノブィリの祈り』スベトラーナ・アレクシエービッチ から ①

チェルノブィリの祈り』スベトラーナ・アレクシエービッチ から


孤独な人間の声
──消防士の妻

「私は毎日シーツを取り替えましたが、夕方にはシーツは血だらけになりました。彼を抱き起こすと私の両手に彼の皮膚がくっついて残る。」
「病院での最後の二日間は、私が彼の手を持ちあげると骨がぐらぐら、ぶらぶらと揺れていた。骨とからだがはなれたんです。肺や肝臓のかけらがくちからでてきた。(略)ああ、とてもことばではいえません。ぜんぶ私の愛した人、私の大好きな人。大きなサイズの靴がなかった。(足が腫れすぎて合う靴がなかった)素足のまま棺に納められたんです」


見落とされた歴史について
──著者 スベトラーナ

「よく知られた大惨事とチェルノブィリを同列に置こうとしても、それではチェルノブィリの意味がわからなくなります。私たちはいつもまちがった方向に進んでいるようです。ここでは過去の経験はまったく役に立たない。チェルノブィリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも人はこのことを考えたがらない。このことについて一度も深く考えてみたことがないからです。不意打ちを食らったのです」

「私たちの内なる器官すべて、それは見たり聞いたり触れたりするようにできているんです。そのどれも不可能。なにかを理解するためには、人は自分自身の枠からでなくてはなりません。
 感覚の新しい歴史がはじまったのです。」

「最初はチェルノブィリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、くちを閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。チェルノブィリは、私たちをひとつの時代から別の時代へ移してしまったのです。」

「なんどもこんな気がしました。私は未来のことを書き記している……。」


第一章 死者たちの大地

──精神科医

「しかし、ぼくはチェルノブィリの汚染地にでかけた。すでに何度も。そこで、自分が無防備であることを理解したのです。ぼくは崩壊しつつある。過去はもうぼくを守ってはくれない。」

──父親

「ぼくは証言したいんです。ぼくの娘が死んだのは、チェルノブィリが原因なんだと。ところが、ぼくらに望まれているのは、このことを忘れることなんです。」

──サモショールたち(強制疎開の対象となった村に自分の一存で帰ってきて住んでいる人たち)

(小話)「チェルノブィリのりんごを食べてもいいでしょうか」答え「よろしい。ただ食べ残しは地中深く埋めるように」

(小話)またひとつ。ウクライナのおばさんが市場で大きな赤いりんごを売っている。「りんごはいかが、チェルノブィリのりんごだよ。」だれかがおばさんに教える。「おばさん、チェルノブィリっていっちゃだめだよ。だれも買っちゃくれないよ」「とんでもない、売れるんだよ。姑や上司にって買う人がいるんだよ」

チェルノブィリ、これは戦争に輪をかけた戦争ですよ」

「この村じゃぜんぶがお墓。まわりじゅうお墓だらけよ。ダンプカーやブルドーザーがうなり、家がたおされる。軍隊の埋葬係がひたすら作業をつづける。学校が埋められてしまった。村役場も、公衆浴場も。この世そのものが。」

──母と娘、ひとことも話さなかった娘の夫(強制疎開の村で)

「私たちはタジキスタンからきました、ドゥシャンベから。あそこでは戦争です。」
「私はこの話はだめなんです。妊娠していますから。でもお話します。お願いがひとつ。私の姓は書かないでください。名前はスベトラーナです。向こうに親戚が残っていて、彼らが殺されますから」
「私は、ここはあそこほどにはこわくありません。ここには銃を撃つ人はいない。それだけでもましです」

──キルギスからきた女性と五人の子ども

「私たち、戦争から逃げるようにしてきたの」
「これ以上はお話ししません。泣き出してしまいそう…。私たちはチェルノブィリに住みます。いまではここが私たちの家です。」
「朝早くとなりの家で槌の音がするの、窓に打ちつけてある板をはがしているんです。女性に会ったわ。「どこからきたの」「チェチェンからよ」。彼女はなにも話さず、泣くばかりでした。」

──……

「人間が幸福になれるはずがないんです。」
「名前は覚えていないが思想は覚えている。「悪そのものは実態にあらず、闇が光の欠如にほかならぬごとく、善の喪失なのである。」ここでは本を見つけるのは簡単です、すぐ見つかります。」
「ぼくは考えるのが好きです。人は不平不満をくちにすることは多いが、考えることはしない。」
「ぼくは人間が恐ろしい。だから常に人間に、いい人間に会いたいと思っている。そういうことなんです。ここに住んでいるのは身を隠している悪党どもか、あるいは私のような受難者です。
 ぼくの名前ですか? 身分証明書を持っていません。警察に取り上げられた。ぶたれましたよ。」

──兵士たち

「あそこに発つ前には恐ろしいと思ったよ、ほんの一時。ところが、あそこでは恐怖が消えていくんだ。恐怖が目に見えないんだから。」
「ぼくらは考え込むようになった。たしか、三年が過ぎたころだよ。ひとり、ふたりと発病したときです。だれかが死に、気がふれた。自殺者も出た。それで、考え込むようになったんだ。ぼくはアフガンに二年いたし、チェルノブィリに三ヶ月いた。人生でもっともかがやいていた時期なんだ。」

「家に帰った。あそこで着ていたものはすっかり脱いで、ダストシュートに投げこんだ。パイロット帽だけは幼い息子にやったんです。とてもほしがったから。息子はいつもかぶっていた。二年後、息子に診断がくだされた。脳浮腫……このさきはあなたが書いてください。ぼくはこれ以上話したくない。」

「10年たった。なにもなかったかのようだよ。もし発病しなかったら、ぼくは忘れていただろう。」
「原子炉にまく砂のように、ぼくらはあそこにまき散らされたんです。」

「発つ前にぼくらは警告を受けた。国家の利益のために、見たことをいいふらすなと。しかし、ぼくたち以外には、あそこでなにが起きたか、だれも知らないんです。ぼくたちは、全部を理解しているわけじゃないが、ぜんぶ見たんです。」